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「桜の季節に」

 

 みなさん、あらためまして主のご復活おめでとうございます。

雪解けもすっかり進み、日陰や山の上だけに雪が残る季節となりました。この時期に眺める大雪山系の山々は、山頂に雪を残しつつも、緑が生えるとても美しい姿をわたしたちに見せてくれます。暖かい春の日差しの中、散歩していてもその山々の雄大さに魅了され、また道端に新しく青葉を育む草花を見るととても癒やされ、気持ちを新たに、前を向いて歩む力が沸いて来ます。そして北海道でも遅い桜が咲き始め、あちらこちらで桜を楽しんでいらっしゃるみなさんがいらっしゃることでしょう。

 桜を見ているとその美しさに魅了されるだけでなく、そのはかなさにもまた心を奪われます。その在り様は、まるでキリストの教会のようだなと感じることがあります。それは、わたしたちがよく知る、代表的なソメイヨシノは、その美しさとは裏腹に、この花からは実がなることがなく、自分自身では子孫残すことができないという点に、なんとなくキリストの教会との共通点があると感じます。人の手を介することなしに増えることはできない桜、その寿命はおよそせいぜい100年くらい(文献によっては、60~80年程度)であろうと言われています。なぜ、自分では増えることもできず、木としては寿命も長くもない木が、これほどまでに全国に増え、また保存されてきたのでしょうか。それは、この桜が美しくもその儚さゆえに日本人の心を奪っていて、それを後世に残したいという、人々の願いからに他なりません。人の手を借りなければ後世に伝えられることがない、その存在の仕方が、とてもイエス様の教会のようなものだなと改めて思ってしまう今日この頃です。

 今の時代まで、キリストの教会が伝えられてきたのは、教会の努力と言うだけでなく、そのイエス・キリストの教えや福音の美しさ、素晴らしさを人々が認め、また受け入れられてきたからこそです。だから、人の手によって世界中のあらゆる場所に植えられ、その場所で芽吹いて、花を咲かせ続けてきたのが現代の教会であろうかと思います。そこに聖霊が吹き抜けるような「本物」の美しさがあるからこそ、教会はこれまでも、そしてこれからも広げ続けていかなくてはならないものなのだ、と痛切に感じます。もちろん時には、教会には冬の時代もあったでしょう。キリストを信じるだけで弾圧された時代もあれば、キリストの名のもとにおきた戦争もあるし、お互いの信仰を批判し合って分裂した歴史もある。しかし、その度に教会は刷新されて、新しいキリストの教会を育んできたのも、渡曽たちの歴史であると言えます。

 桜という木もまたしかりで、不思議なことに、春が来たから花が咲く、というものでもない。耐寒暴露あるいは寒冷暴露といいますが、冬の寒さを経験しなければ、翌春には花を咲かせない、あるいは咲かせても数少ない花しか開かないそうです。教会も、これと同じような性質があるのかも知れません。不思議なことに、日本においてキリスト者が爆発的に増えたのは、むしろキリスト教が弾圧された時代であり、また世界大戦などの大きな戦争があった、苦難の時代を経たときだという歴史があることも事実ではないかと思います。

 もしかすると今は、教会にとってちょっと苦しい冬の時代なのかも知れません。しかし、だからと言って、花を付けない木を切り倒すだけ、朽ちるに任せるだけでは能がない。100年先にもイエス様の福音が、この北海道の地に咲き誇っていられるように、わたしたちがイエス様とともに歩みながら、自分たちの手で、福音を宣べ伝えていく耐える宣教も大切かも知れません。エマオへの道をともに歩まれた主のように、きっとそこにはイエス様が同伴してくださいます。

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