
「年頭司牧書簡に注目しましょう」
三木パウロ 佐久間力神父
みなさま、主のご降誕と新年あけましておめでとうございます。旧年中は、皆様のお支えのおかげをもちまして、無事にクリスマスと新年を迎えることができました。これからも、どうぞよろしくお願いいたします。というような新年のご挨拶も、最近では、あまりにぎにぎしくは行われなくなった感じも致します。伝統的な年始のご挨拶である年賀状も「年賀状じまい」として送らなくなり、SNSで「あけおめ、ことよろ!」(※注:「あけましておめでとうございます、今年もよろしくお願いします」の略)という言葉さえも、すでに死語になりつつあるような感がある。なんとなく寂しい気もしますが、現代においては、そのように季節の折につけてのご挨拶よりも、SNSなどを通して日常の何気ない、広くて浅いコミュケーションの方が大事にされているからとも言えるかも知れません。とはいえ、クリスマスと新年は、やはりおめでたい気持ちになりたいものですから、明けて新年に会えば、「おめでとうございます」と、元気にご挨拶するのも大切な文化の一つです。
そして、新年のご挨拶と言えば、新年初めの教区NEWSに書かれている、司教様の文書「年頭司牧書簡」が、司教様から信徒の皆様への、新年のご挨拶に当たるものであろうかと思います。しかし、なかなか皆さんには読まれていない現実もあるように聞いていて、司教様も残念がっておられる次第です。知っていただきたいのは、この年の初めに出される文書は、単なる「新年のご挨拶」にとどまるものではないということです。教皇様から、札幌教区を預かる司教として、札幌教区の全ての小教区に向けて、そしてその教会に来られている一人ひとりの信徒にむけて、教区の教会が、今年一年どのように歩んでいこうか、という呼びかけがそこには書かれている文書なのです。
カトリック教会における、教会共同体というのは、個別的な、個人的な、個々の信徒の集まりというだけの集団では決してありません。それぞれが、それぞれのやり方や方針をもって、個人的な信仰を持ち寄るような、個人の集団ではありません。同じ一つのキリストという牧者に導かれた、共に一つの体を作り上げるような「共同体」であり、一つの目的のために共に協力して働く「共働体/協働体」なのです。わたしたちは、一人ひとりが、イエス・キリストという牧者に飼われている羊です。その集められた羊が、それぞれ勝手な方向に歩もうとしたら、お互い頭をぶつけあったりして衝突したり、違う方向に行こうとしたりして、群れはあっという間にまとまりを失ってしまうでしょう。そして、バラバラになっってしまった羊たちは、オオカミや野獣の格好の餌食となってしまいます。だからこそ、わたしたちは一つの群れをなす羊の集団として、ただ牧者イエスだけを見つめて、「同じ方向を向いて」進んでいくことが大切です。
そして、イエス様、ひいてはその僕(しもべ)であり使徒の後継者であり、教区を預かる司教たちが「さあ、こっちの方向へ向かいましょう」と青草の茂る草原を指さして、教会全体の行く方向を示す指標の一つが「年頭司牧書簡」になります。もちろん、すべての教会と言っても、都市部にある信徒が沢山いる教会と、地方小都市にある家族的な人数が全ての小教区では、状況が全然違います。そこで、できることもあれば、できないこともあるし、すべてに同じことを要求することもできないし、同じ活動が要求できるわけでもありません。しかし、それでも一つひとつの小教区だけで見るだけでなく、それらが集まってできる「地区」や「教区」という大きな集団を大きく眺めたとき、決して「絵空事」や「綺麗事」だけを語っているだけではありません。司教としていま、わたしたち一人ひとりに、何を考えて欲しいか、小教区としてどのようなことを考えて欲しいか、そして教区全体としての希望ある未来に向けてのメッセージが書かれています。ぜひ、注目して読んでみてはいかがでしょうか。
いま、世界を見回しても、不安ばかりが募る現代の中で、カトリック教会が希望のともし火となることができれば、きっと希望ある未来はきます。イエス様が、この世に来られた時と同じように、そして明けない新年はないように、そこには必ず希望があります。新しい一年に、祈りと愛が満ちますように。
2026年9月巻頭言「すべてのいのちを守るための月間」
今年の夏、久しぶりに登山をする時間を得ることができました。最北の島である利尻島で利尻山に登りました。天候にも恵まれ素晴らしい天気の中、北海道で唯一と言っていいヒグマの心配をしなくてもいい登山は、心も体も浄化してくれるような良い祈りの時間でした。さすがに最北に位置する山らしく、他の山では6月頃に見られる高山植物が、今最盛期を迎えるように咲き誇り、厳しい自然の中にこそ生きる場所を見いだした、小さくも美しい姿に神様の創造の妙を感じずにはいられません。
美しい自然の感動もありながら、その反面に容赦ない自然災害もまたわたしたちは直面しています。熊本の地震災害、千葉県や石川県での豪雨災害。片や地震と渇水に苦しみ、片や雨が降りすぎて流され生活の場を追われる。災害は今やどこでいつ起こってもおかしくない様相を示しています。北海道においても、火山活動が活発になり有珠山や十勝岳はいつ噴火してもおかしくない状況であるし、冬になれば今までは降っていなかった地域に大雪が降って都市機能が混乱することも。この自然環境の変化に、わたしたちはいったい何ができるのでしょうか。自然の驚異の前には、ただ指をくわえて見つめるだけしかない気もしますが、特に温暖化という現象の責任は人間の活動にこそあるということを知るならば、決して何もできないことはないのかも知れません。
教皇フランシスコか日本を訪れた際に掲げられたテーマ「すべてのいのちを守るため」を受け、日本の司教団は、教皇回勅「ラウダート・シ」も踏まえて、毎年9月1日~10月4日(アシジのフランシスコ記念日)までを、「すべてのいのちを守るための月間」を正式に定めました。地球温暖化や生物多様性の危機といった環境問題に向き合い、戦争を初め、人類のみならずすべての生命とのつながりを大切にして具体的な行動様式の変化などを促す期間としました。
それらへの取り組みは、
①被造物を大切にするためのミサを執り行う。
②生活様式を振り返る、エコロジカルな回心。
③AIを含めた、これからの環境に関するエコロジカルな教育。
④貧しい人々と大地の叫びへ耳を傾ける、です。 リシリブシ/利尻岳2026年8月3日撮影
もちろん、環境問題はこの期間だけ考えればいいものではないことは当たり前のことですが、それでも特にこの期間だけは心を向けて祈り、また行動することが大切なのだと、教皇様も司教団も考えているということです。ですから、それぞれの個人としてあるいは教会共同体として何ができるのかを考え行く月とできればいいのかも知れません。きっとわたしたちの日常や周りにも、多くの課題と取り組みを見つけることができます。子どもたちと自然の中で遊びながら、その土地固有の植物の不思議さを話したり、外来種の脅威を伝えたり。水や燃料を無駄少しでも無駄にしないようにすることだったり、何よりも、今の自然環境を神様が造ったことに感謝し、祈ることを伝えていくことが大切なのであろうと思います。戦争を含め人間の愚かさは自らを滅ぼしていくのかも知れませんが、また逆に神様の造られたこの世界を、元通りの調和の世界に導いていくことができるのも人間にしかできないことです。それを神様から任されていることを知り、取り組んでいくことが、人類皆で担うべき「十字架」なのであろうと思います。
