
2026年7月巻頭言 令和8年6月27日(土)
伝統的に、カトリック教会では7月を「キリストの尊き血の月」として定め、十字架上で苦しめられ、血を流されたイエスの「御血」を黙想する月としています。イエス様は神でありながら、人類のために血を流されました。それは、ひとえに謙遜さゆえの「救い」そのものだったでしょう。しかし、わたしたちは救いを与えられてもまだ、謙遜さをすぐに忘れるわたしたちがいます。最近は、とにもかくにもハラスメントが叫ばれていて、言動や、行動に気をつけなければなりませんが、それもこれも、わたしたちが謙遜さ、謙虚さを見失っているからなのかも知れません。
アントニー・デ・メロ著「沈黙の泉」(1989/女子パウロ会)にこんな話があります。
― 区別 ―
師は、幾人かの弟子を連れて川岸を散歩していた。
師は言った。「ほら、あのように魚はいつでも自分の行きたいところへ泳いでいく。
それを心から楽しんでおるのじゃ。」
通りがかりの人がそれを小耳にはさむと、いきなり話しかけてきた。
「魚が楽しんでいるなんてどうしてわかるんですか? 魚でもありゃしないのに。」
弟子たちは何たる無分別な言動と感じて、絶句してしまった。
師のほうはというと、これこそ大胆なる求道心の表れ、と読み取ってほほえんだ。
師は愛想よく答えた。
「それでは君、わしが魚でないということ、どうしてわかるのかね? 君はわしでもないのに。」
してやったり、弟子たちは、これ見よがしにと高笑いした。
ところが、その男だけは、師の意味深長なことばに心を打たれたのであった。
終日男はこのことばについて思いめぐらすと修道院までやってきて、師にこう言った。
「おそらく、あなたは、わたしが思っていたほど魚と違いはないかもしれません。
また、わたしも、あなたとそう違いはないかも・・・。」
この師を取り巻く弟子たちの態度に、あなたは何を思うでしょうか? わたしたちは、キリスト教の教えを知っているというだけで、傲慢になっていることがあるかも知れず、それは司祭だけでなく、いち信徒として、自分の言葉や態度に表れてはいないかと、いつも問い続けていく必要があることを教えてくれます。どんな偉い人であろうとも、イエス様から見れば、信者も洗礼を受けていない人も対して違いはないということではないでしょうか。
この、「キリストの尊い血の月」に、わたしたち一人ひとりが、イエス様の自らを捧げてくださった謙遜さにあずかることができるよう祈れるように願い求めていければと思います。
