
「雨にも負けず」
山本孝神父
4月号の原稿を書く時期になりました。先日、日本の信徒発見の聖母の祝日がありました。3月17日のこの日、長崎の大浦天主堂で「信徒発見160周年 日本の信徒発見の聖母記念ミサ」が長崎大司教の司式で捧げられました。わたしは長崎の方から教えてもらい
、ライブ配信のミサにあずかりました。大浦天主堂ではたくさんの女性がベールを被ってミサに出ていました。夜7時からのミサなのに、子どもたちがたくさんきていて、子どもたちの聖歌隊も歌っていました。そのすぐ後の3月19日は聖ヨセフの祭日でした。わたしは教皇様も持っておられる「眠っている聖ヨセフの御像」を持っています。この御像は普段は部屋のパソコン机の上の置き時計の裏に置いています。わたしの机の上の小さい祭壇にはいくつかの御像がありますがその中に寝転んでいる聖ヨセフの御像は、どうしてもだらしなく見えるので普段は目につかない場所に置いています。
しかし、3月19日には時計を少しずらして見える位置に出してあります。20日が春分の日で、25日は神のお告げの祝日です。毎年春先のこの時期は年度末で修道院や教会では、誓願式や叙階式、また人事異動などがあります。わたしが小神学校に入った時、58年前の3月の末でした。ふるさとの美唄は小雪の舞う天気でしたが、福岡にあったフランシスコ会の小神学校に着いた時には暖かくて驚きました。福岡には2年いてその後、埼玉の修練院で一年間の修練期を過ごし、翌年3月の聖ヨセフの祝日の頃に初誓願を立てフランシスコ会に受け入れてもらいました。初誓願を立てた後は東京の大神学校に移りそこで7年間過ごしました。初誓願から三年後に終生誓願を立てました。大神学校を卒業しての司祭叙階はだいたい春休みの時期でしたが、わたしたちの学年は、叙階を半年早めて7月に司祭叙階式をしてもらいました。
昔わたしと一緒に司祭叙階された神父さんが、車を買い替えました。その神父さんはナンバーの数字に1971を付けていました。わたしが(いくない)なんておかしな番号を選んだなと言ったら、彼は、1971は自分が終生誓願を立てた年だったからと答えました。わ
たしは彼は偉いなと思いました。この人は司祭叙階は一緒でしたが勉強してきたコースが違ったので、わたしの終生誓願の方が彼より数年早かったと思っています。その時彼に、神父が乗ってはダメな車を偉そうに教えてあげました。「俺たちは神父だからトヨタのボクシーには乗っちゃダメだよ。それから日産のテラノって車もダメ」(今はたぶん作っていない)と、もっともらしく話しました。偉そうにバカ話しをするならまだ許されるでしょうが、わたしは近ごろ偉そうに振る舞うトランプ大統領には気分が悪くなります。彼は愛とは反対の行いや考え方をします。わたしは最近宮澤賢治のことを思い出して調べました。宮澤賢治は当時花巻にいた斎藤宗次郎という内村鑑三の弟子であったクリスチャンの生き方に感銘を受けて、「雨にも負けず」を書いたみたいです。
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雨にも負けず 風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ 丈夫な体を持ち
欲はなく 決していからず
いつも静かに笑っている 一日に玄米四合と
味噌と少しの野菜を食べ あらゆることを
自分を勘定に入れずに よく見聞きしわかり
そして忘れず 野原の松の林の陰の
小さなかやぶきの小屋にいて 東に病気の子供あれば
行って看病してやり 西に疲れた母あれば
行ってその稲の束を負い 南に死にそうな人あれば
行って怖がらなくてもいいと言い 北に喧嘩や訴訟があれば
つまらないからやめろと言い 日照りのときは涙を流し
寒さの夏はオロオロ歩き みんなにでくのぼうと呼ばれ
褒められもせず 苦にもされず
そういう者に 私はなりたい‥
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3月19日のバチカン放送によれば、ローマの病院に入院中のフランシスコ教皇は、イタリアの日刊紙「コッリエーレ・デッラ・セーラ」の編集長に書簡を送られました。その中で教皇は「戦争は不条理、地球の武装を解こう」とはっきり言っておられました。教皇様はますます健康を回復されて、この世にしっかりと神の言葉を発言していってもらいたいです。
2026年9月巻頭言「すべてのいのちを守るための月間」
今年の夏、久しぶりに登山をする時間を得ることができました。最北の島である利尻島で利尻山に登りました。天候にも恵まれ素晴らしい天気の中、北海道で唯一と言っていいヒグマの心配をしなくてもいい登山は、心も体も浄化してくれるような良い祈りの時間でした。さすがに最北に位置する山らしく、他の山では6月頃に見られる高山植物が、今最盛期を迎えるように咲き誇り、厳しい自然の中にこそ生きる場所を見いだした、小さくも美しい姿に神様の創造の妙を感じずにはいられません。
美しい自然の感動もありながら、その反面に容赦ない自然災害もまたわたしたちは直面しています。熊本の地震災害、千葉県や石川県での豪雨災害。片や地震と渇水に苦しみ、片や雨が降りすぎて流され生活の場を追われる。災害は今やどこでいつ起こってもおかしくない様相を示しています。北海道においても、火山活動が活発になり有珠山や十勝岳はいつ噴火してもおかしくない状況であるし、冬になれば今までは降っていなかった地域に大雪が降って都市機能が混乱することも。この自然環境の変化に、わたしたちはいったい何ができるのでしょうか。自然の驚異の前には、ただ指をくわえて見つめるだけしかない気もしますが、特に温暖化という現象の責任は人間の活動にこそあるということを知るならば、決して何もできないことはないのかも知れません。
教皇フランシスコか日本を訪れた際に掲げられたテーマ「すべてのいのちを守るため」を受け、日本の司教団は、教皇回勅「ラウダート・シ」も踏まえて、毎年9月1日~10月4日(アシジのフランシスコ記念日)までを、「すべてのいのちを守るための月間」を正式に定めました。地球温暖化や生物多様性の危機といった環境問題に向き合い、戦争を初め、人類のみならずすべての生命とのつながりを大切にして具体的な行動様式の変化などを促す期間としました。
それらへの取り組みは、
①被造物を大切にするためのミサを執り行う。
②生活様式を振り返る、エコロジカルな回心。
③AIを含めた、これからの環境に関するエコロジカルな教育。
④貧しい人々と大地の叫びへ耳を傾ける、です。 リシリブシ/利尻岳2026年8月3日撮影
もちろん、環境問題はこの期間だけ考えればいいものではないことは当たり前のことですが、それでも特にこの期間だけは心を向けて祈り、また行動することが大切なのだと、教皇様も司教団も考えているということです。ですから、それぞれの個人としてあるいは教会共同体として何ができるのかを考え行く月とできればいいのかも知れません。きっとわたしたちの日常や周りにも、多くの課題と取り組みを見つけることができます。子どもたちと自然の中で遊びながら、その土地固有の植物の不思議さを話したり、外来種の脅威を伝えたり。水や燃料を無駄少しでも無駄にしないようにすることだったり、何よりも、今の自然環境を神様が造ったことに感謝し、祈ることを伝えていくことが大切なのであろうと思います。戦争を含め人間の愚かさは自らを滅ぼしていくのかも知れませんが、また逆に神様の造られたこの世界を、元通りの調和の世界に導いていくことができるのも人間にしかできないことです。それを神様から任されていることを知り、取り組んでいくことが、人類皆で担うべき「十字架」なのであろうと思います。
