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                          神の私への愛          No.1.          

- to be loved -

 

 愛されることは、受け身の体験です。これは理屈や説明でわかるものではありません。

これは経験と心情の問題です。

私自身がフト気がつくことからわかるものです。客観的証拠を突きつけられて、頭で納得するよりも、私の心が「愛」を感じるのです。その気になって周囲を見回す時、小さな出来事の中に「愛されている自分」に気がつくのは私ですから、主観的感動でもあります。

「神は愛です」とヨハネは言っていますが、これは体験から生まれた言葉です。

どんな神学者の客観的論証も、これにはかないません。神は愛によってのみわかります。

その愛は、ただ感じるのみなのです。ヨハネは自分を「主の愛された弟子」と言い切りました。これは幼子が親に抱く感覚に似ています。

「愛さないと見えないものがある」(マックス・シェラー)。これも本当です。一人で静かに祈っていると、どんなに自分が愛され、導かれてきたかがわかります。自分にも価値があることに気づきます。これはうれしい発見、大発見です。

 

イエスさまは神がどれほど私を愛しておられるかを、身をもって示してくださいました。この愛を感じるところから感動が生まれて、キリスト・イエスとの「人格的な出会い」になります。

人は先ず愛されてこそ、人を愛することが出来ます。愛されている自分を、しみじみ味わうことを大切にしましょう。

驚きと喜び、恵みを感じるところから、神の私への愛がわかり、さらに隣人への私の愛も具体的になります。神は愛によってしかわかりません。

聖書は自分に向けられたものとして、2度、3度と、ていねいに味わいます。

 

内省のために: 次のように尋ねられて思い出すことがありますか?

◎ 無償の愛を教えてくれた人、意味深い出来事は?

☆ 私の幸せを、心から喜んでくれた人は?

★ 私のために、泣いてくれた人は?

◎ 感謝の気持ちを、よく表しましたか。

 

聖書の箇所:

Iヨハネ 4:7~16 「神は愛だからです」

エレミヤ 31:3~6 「とこしえの愛をもってあなたを愛し…」

イ ザ ヤ 41:8~16 「あなたの右の手を堅く取って言う……」

            神の私への愛            No.2.

 

- to be loved -

 

 百メ-トルの長さはどのくらいのものか、大体わかるものです。重さや温度なども大体の見当はつきます。

これは感覚でわかるもの、つまり経験を通して身につけた感覚からくる知識です。

子供の頃に自転車に乗ることをおぼえると、その後何年もの間、ぜんぜん乗らなかったとしても、またすぐに乗ることができます。

水泳もそうです。これは経験から覚えた知識、体得した知識です。

黙想も体得したものになると、いつでも、どこででも神の愛と出会い「わたしはある」方と心の通いを持つことができるようになります。

神の愛や人の愛情がわかるのも、これと似ています。

黙想は「感じる」センスにも助けられます。「考える」能力よりも、フトわからせる力やセンスを養いましょう。

「愛されている私」が実感できると、いつでも、どこででも「愛」を感じるようになります。

美しい人を見て「花のようだ」と感じた人は、そのあと、花という花が、その人を思い出させられるようなものです。アシジのフランシスコは、そう言う人であったと、私は思います。

 

イエスとの出会いを通して《愛の神》に出会ってください。恐れの神のイメ-ジからは、喜びが得られません。愛されていることを感じたとき、神と私の間にある大きなへだたりを越えて、愛だけが共鳴し合います。<み言葉>を味わうことから、心の中にあるという七弦の琴が共鳴しますように。

私の愛がかきたてられると、愛は外に向かって現われてきます。その愛が鳴り響けば響くほど、周囲の人の心の金線にも触れます。

 

心で祈るヒント:

☆ <み言葉>が心に響く個所を、静かに味わいます。

◎ 心の中に起ったことは「無」ではありません。

★ 対話が一方通行にならないために、待ってみます。

☆ 感謝の心を、十分に表せましたか。

聖書の個所:

Iコリ 15:9~10 「神の恵みによって今日の私があるのです」

マタイ 18:10~14  迷い出た羊のたとえ

マタイ 14:13~20  五千人に食べ物を与える

ヨハネ 17:23~26 「私に対するあなたの愛が彼らにあり」

           神の私への愛           No.3.

              - self worth -

 

 私の存在には価値があるという実感は、すばらしい才能です。

持ち物によらず、働きによらず、ありのままの自分自身を受け入れられるのは、信じられないくらいです。

受け入れられていることを、自分が受け入れるためには、信頼や謙そん、勇気がいります。

神の愛は「それに値しない者への愛」です。神の無償の愛を信じるところから、すべては始まります。

神の家を訪問する時には、手土産の大小を気にする必要はありません。

人間の世界では、学歴や肩書き、お金や容姿がものを言います。

成績のいい人、よく出来る人が評価されます。しかし、世の価値基準とは違うのが、神の国、福音の世界です。

 

神の愛は、それに値しない者への愛です。ふさわしいものは一人もいません。神が求めておられるのは、ただイエスを主と信じ、その福音を生きる人として、天の父のみ旨を行なうことです。

愛は純然たる賜物です。愛は商取引ではありません。

「愛を支配しようと財宝などを差し出す人があれば、その人はさげすまれる」(雅歌8:7)と記されています。

 

 ヴィクトル・ユ-ゴ-の「レ・ミゼラブル」を思い出してみましょう。

ジャン・バルジャンを回心させたのは何だったのでしょうか。

無償の愛の体験でした。

彼はまず人間に出会います。食事と銀の器を与える司教の後ろには、高貴な人間の愛がありました。彼は、ありのままの自分が、ありのままに受け入れられている驚きと喜びを味わい、自分の存在の価値を実感して、生まれ変わりました。愛だけが、囚われから解放します。

ジャンは、心の牢獄からも解放され、自由になったのです。

 

心で祈るために:

◎ 大切にされた思い出がありますか。親、隣人、教会、共同体

☆ 優しい言葉をかけられたことがありますか。いつ、どこで。

★ 忘れられない親切を受けたことがありますか。誰に。

◎ 感謝の思いを、十分に表せましたか。

聖書の個所:

ル カ 19:1~10 「ザアカイ、ぜひあなたの家に泊まりたい」

ヨハネ 8:1~11 「私もあなたを罪に定めない。行きなさい」

ガラテ 1:13~24 「母の胎内にいたときから選び分け、恵み」

神のの私への愛              No.4.

            - God's love for me -

 

 聖アウグスチヌスは「人の心に大きな愛を呼び起こす力は、自分がずっと以前から相手に愛されていることに、気が付くことである」と言っています。

 

よい例え話がありますので、著者に感謝し借用して、引用させていただきます。

 

 「私がちょうど田舎から、だれも知る人のいない東京の大都会に出てきて、一人で非常に苦労して生活しているとします。そうすると何か様子が変だ、実は田舎の年とったおやじが自分の知らないうちに、いろいろと心配して人に自分のことを頼んでいるのではないだろうか、という気がしだすのです。

そうして考えてみると、どうもそうに違いないということが、だんだんはっきりしてくるのです。

神の私たちへの愛というのは、そういうものです。私たちには、神がなにをされているかは絶対にわからないけれども、段々年をとってきますと、どうも神が自分を導いているのではないだろうか、ということが明らかになってきて、証明もなんにもなしに、もうしまいには疑うことさえもできないようになってきす。

だから、神があるとか、ないとかということは、理屈の問題ではなくて、そういうまったく経験と信仰の問題です」(森 有正著「いかに生きるか」から借用)

 

神の私への愛は、信じるときに、それを感じることができます。そして報恩の心から、愛とゆるしが出来るようになります。ありのままの自分を受け入れることができるようになります。フト「思い当たる」ことがありますように!

 

ダイナミック・メモリ-(月日や順序に関係なく思い浮かぶ記憶、出会いと出来事)

☆ 喜びを感じたことや幸せな出来事を思い出してみます。

◎ 生きていてよかったこと、思うことがありますか。

★ 愛を教えてくれた人、出来事やもの(本、記事、映画)など。

◎ 感謝の気持ちを、よく表せましたか。

 

聖書の個所:

ル カ 15:11―32  ある父親の愛情物語(放蕩息子の譬え)

ル カ 7:11-16  イエス、近づいて棺に手を触れられる

ヨハネ 10:7-18  イエスは良い羊飼い

イザヤ 43:1~7 「私の目にあなたは値高く、尊く………」

神の私への愛                   No.5.

- God's love for me -

 「病院生活一年は、大学生活三年に匹敵する」という人がいます。

「それぞれの生涯学習」という記事のなかで述べておられる作家の遠藤周作氏です。

病院生活の経験がある人には、わかりやすい言葉ではないでしょうか。

病気で休学や休職するはめになって、不幸を嘆いた人も、あとになって得難い経験をしたことに気づきます。

その当座は、まわり道をしたように見えたことが、学校生活に勝る日々だったことに思い当るのです。

神のはからいとか、摂理と呼ぶもの、神の助けがあるのです。

 

遠藤氏は、術後の痛みに、うめき声をあげているとき、看護師さんが手を握ってくれたことを書いておられました。その手は「あなたの痛いこと、わかっているわ」そう言っているようだったこと、また彼女が自分の痛みを半分引き受けてくれているような気持ちになって、次第にうめき声が出なくなった由です。

苦しむ人の手を握る「同伴者イエス」が、氏の小説のなかに登場するようになるのは、この時の経験によると書いておられました。

 

私にも似たような経験があります。だれにもあるのではありませんか。学校では決して学べないことがあり、あとになって必要な訓練だったことがわかることがあるのです。これが「神を愛する者たちには、万事が益となるように共に働くということを、私たちは知っています」とパウロの言っていることです。

 

心で味わうために:

@ 今ふりかえってみて、恵みだったと思うことがありますか。

# 逆境の時に、人の優しさを感じた体験がありますか。

☆ 「同伴者イエス」に出会ったことがありますか。

★  感謝の気持ちを、よく言い表せましたか。

 

聖書の個所:

ル  ツ  2:1-13 「心に触れる言葉をかけていただいて……」

ル  カ  5:12-16 「手を差し伸べてその人に触れ………」

ヘブライ  12:4-11 「主の鍛練を軽んじてはいけない」

フィレモン 1:8-20  パウロ、オネシモのために執り成す

 神の私への愛            No.6.

― God's love for me -

シスタ-A.R.から、ジョ-ジ・ハ-バ-トの「Love」という詩をもらいました。

 

〈愛〉が私に「ようこそ」と言った。

だが、私はたじろいで、ちらと罪と汚れを思った。

しかし、目ざとい〈愛〉は、入ってきた時から私がためらっているのを見て、近寄って優しくたずねてくれた。

 「何か、不足があるのか?」と。

 「客となる資格が」と答えると、〈愛〉は言った。

 「お前こそ、ふさわしい客」

 「この冷たい恩知らずの私が? ああ、私はあなたの顔を見ることもできません」

〈愛〉は、私の手を取ると、笑って答えた。

 「その眼をつくったのは、私ではないか」

 「そうです、主よ。でも私がだめにしてしまいました。どうか、この恥に値する場に

  行かせてください」

 「では、知らないのか?」と〈愛〉は言った。

 「誰がその過ちをおおったかを」

 私は言った。「主よ、では、せめて私がお仕えいたしましょう」

 「坐りなさい」と〈愛〉は言った。

 「この食事を取りなさい」 そこで私は坐って食べた。

 

聖書の個所を開いて、ゆっくり味わってみます。

マルコ 5:25~34  イエスの服に触れた女性

ル カ 23:39~43 「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」

ル カ 17:11~19  感謝したひとりの人

1ヨハ 4:18~19  愛には恐れがない

内省のために:

◎ 現在の境遇を、もったいないと感じることがありましたか。

☆ 自分を恥じることや、自己嫌悪になったことがありますか。

◎ ほめられたりした時に、素直に、うれしい、有り難う、と言えましたか。

★ ゆるしを求めること、どんな感じですか?

◎ 感謝の気持ちを、口や表情で表すことが、よく出来ましたか。

★ 人をほめること、認めることをしていますか。

神の私への愛 No.10

- God's love for me -

すべてのものは神の存在と働きを示しています。

詩編の言う「天は神の栄光を語り大空は御手の業を示す」(19:2)のです。

被造世界の兄弟姉妹を観照(カンショウ*)してみましょう。「よく見れば ナズナ花咲く 垣根かな」(芭蕉)。

生きているものにはそれぞれ役割があります。そして語りかけているのです。

み言葉と呼ばれる幼児イエスの誕生からはじまるご生涯は、言葉と行いを通して「神の愛」を私たちに示します。

*存在するものをそのままの状態で眺め、味わいます、主観をまじえないで物事を静かに観察して、意味を知ること、と考えています。

 

「すべてのみえるものは、みえないものにさわっている。きこえるものは、きこえないものにさわっている。かんじられるものは、かんじられないものにさわっている。おそらくかんがえられるものは、かんがえられないものにさわっているのだろう」(ノヴァーリス「フラグメンテ」より。ドイツの詩人の断片から引用)。

 

「念祷(お祈り)とは、私の考えによれば、自分が神から愛されていることを知りつつ、その神とただふたりだけでたびたび語り合う、友情の親密な交換にほかなりません」。これはイエズスの聖テレジアの言葉です。(自叙伝7の10)

 

  • 呼吸を整えてみます。息をひとつ、ふたつ、、とう、と数えてみるのもグー。

  • 一つひとつを目で眺め、そのありのままの様子を、味わってみます。

  • 心でお祈りするようにしてみます。ヒントはあります。

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