
クリスマスの贈り物
皆さんがよくご存知の「クリスマスの贈り物」をst渡辺和子がお話して書かれたものを編集しました。
クリスマスの頃には街にはクリスマスツリーがたくさん飾られ、本当にきれいです。
デパートとか、商店も、それなりにクリスマスの装いがしてありますし、ジングルベルをはじめ、キャロルが流れています。
(省略)
皆さんが誕生日のパーティーにどこかに招かれていらした時に、その日誕生日をお迎えになった方を、その日一番お祝いをしてあげなければならない方をそっちのけにして、集まって来た人々だけがお互い同士、贈り物を交換しているとしたら。
私たちが「おめでとう、おめでとう」とお互い同士、ただ言っているとしたら、その日お誕生日を迎えたご本人は、随分淋しい思いをなさるのではないかと思うのです。
「あなたは、何の贈り物をイエスさまに準備していらっしゃるのですか?」と伺った時に、「私はこういうものを今年はイエスさまのために準備しております、すでに準備ができています」とおっしゃれる方がすべての方であるかどうか。
多分イエスさまを一番お喜ばせるする贈り物は、アルタバル(この後、書かれる四人目の博士のお話)がお捧げしたような贈り物ではないでしょうか。
“私たちのイエスさまへのプレゼント”を準備したいと思います。
讃美歌103番にも、聖書にも、三人の博士たちが、お生まれになったばかりのイエスさまの所に、贈り物を携えて来たという事が唱えられ、そして書かれています。
その当時の知識人、学者と呼ばれていた人たちが、星を見て、自分たちが待ち望んでいた救い主がお生まれになったことを知り、それぞれが宝物をもってベトレヘムに集まってきたのです。
そして三人は自分たちの宝箱を開けて、一人は黄金を、一人は乳香を、そして三人目は没薬と呼ばれるものをキリストに捧げたと書かれています。
ご存知のように「黄金」はキリストが王さまであることを象徴しています。
「乳香」はこの幼な子が神の子であることを表しています。
「没薬」というのは聞きなれない言葉ですけれども、これはアフリカ産の植物から取った苦いお薬だそうです。そしてそれが表していたものは、この幼な子イエスは、やがて苦しみを受けて十字架の上で死ななければならないこと、つまり、救い主としてキリストの苦しみの一生を表していました。
したがってこの3つの捧げ物は、イエス・キリストがどういう方であるかということ、どういう生涯をお送りになり、十字架につけられて死んだ後に神の子として復活なさるということを、すでにご誕生の時に象徴的に表していたのです。
ところが、実は博士は三人ではなく、四人いたのだという話が伝えられています。
四人目の博士は名をアルタバルといったそうです。
そしてこの人は天文学にも通じていたと同時にお医者さまでした。自分の国で医者として皆から尊敬され、お金にも家族にも恵まれていて、何もわざわざすべてを捨てて、その当時非常に危険の多い長い旅をベトレヘムへする必要はなかったのです。
しかしながら星を空に見て、昔から予定されていた救い主をどうしても拝みたい。
そして自分の宝物をお捧げしたいという気持ちにかられ、まわりの人の反対を押し切って、自分の持ち物を売り払い、イエスさまへの宝物として、その当時、非常に珍重されていた真珠を携えて旅立ちます。
ところが旅をつづけている間に病気に苦しむ人々を見かけます。
医者であるアルタバルはその人たちを見捨てておくことができず、手当をしている間にいつしか時間がたって、ようやくベトレヘムに着いた時には幼な子イエスさまはすでに、ヘロデ王の手を逃れるためにエジプトへ出立した後でした。そこで、アルタバルはすぐにエジプトへ行きます。
しかしながら広いエジプトを探してもなかなか見当たらない。
そこでまたユダヤの地にもどってくるのです。
それからというもの、いつもイエス・キリストの姿を探しながら、つい自分が出会う、貧しい人たち、食べる物もなく、生活の手段を知らないで苦しんでいる人たちに畑を耕すことを教えてやったり、病気の人たちの病をいやしてやったり、生活を正すことを教えてやったりしているうちに、いつしか三十年余りの日々がたっていきました。
そしてそれらの人たちを助けるために自分の国から持って来た宝石を次々と売らなければならなかったのです。
でも最後まで、これだけはイエスさまにお会いした時にお渡ししなければいけない、という価の高い真珠だけは手放しませんでした。
三十年もたって、老人になったアルタバルは、その日も貧しい人たちの中で、一生懸命働いていました。その時です。
一人の人が「イエス・キリストと呼ばれる人が、今からゴルゴタの丘で、二人の盗賊と一緒に十字架につけられますよ」ということを注進しにまいります。
そこで腰も曲がりかけ足元もおぼつかないアルタバルは、せめて一目、イエスさまの生きていらっしゃる間にお目にかかりたいと思ってゴルゴタに急ぎます。
ところが、どうしたことか、そこでもまた行く途中で、一人の若い女の人が、家族が貧しいために自分の身を売らなければならない状況にぶつかってしまします。
アルタバルは非常に迷います。こんなことに関わっていたらイエスさまの死に間に合わない、もうこれが一生の最後の機会だ、と思いながらも、泣いて苦しんでいる家族や、泣いていやがる娘の姿を見て、どうしてもその人を助けざるを得なくなり、イエスさまへの贈り物として、三十年大事に持っていた真珠と引き換えにその女を助けます。折しも、イエスさまは十字架にかけられて死にました。
聖書を読んでみますと、イエスさまが死んだときに、神殿の幕は上から下に二つに裂けて、地は震え、岩は裂けたと書いてあります。したがって、大きな地震が起きたのでしょうね。
道を歩いていたアルタバルは、倒れて来た建物の下敷きになります。
その時にイエス・キリストが、アルタバルにお現われになりました。
そして、アルタバルは喘ぎながら息も絶えだえに主に向かっていうのです。
「イエスさま、おそすぎました。私はあなたがお生まれになったことを告げる星を東の国で見た日から今日まで三十数年、あなたをずっとお探ししてきました。
ベトレヘムでもお会いできなかったし、エジプトでも見つけることができなかった。
そしてそれからのわたしの生涯は貧しい人、生活に困窮して悪い事に手を出している人たちを助けるために費やされました。
今日、最後の機会として、あなたにお目にかかりに来たのに、また私は、あなたと会うチャンスを逃しました。あなたにお会いしたい、その時にお渡ししたいと思って最後の最後までとっておいた真珠も、今はありません。ですから、わたしにはあなたに差し上げる贈り物はなくありました。どうぞお許しくださいませ」
するとイエスさまが、とてもやさしく、アルタバルにおっしゃいます。
「アルタバル、わたしはお前に、何度も、何度も何度も会っていたのだよ、そしてお前の真珠はわたしがしっかりともらっている」
マタイ25章に皆さまもよくご承知のイエスさまのお言葉があります。
「あなた方は、わたしが飢えていた時に食べさせてくれた。わたしがのどを渇かしていた時に飲ませてくれた。わたしが裸の時に着せてくれた。わたしが病気の時に見舞ってくれた。わたしが牢に入っていた時に訪ねてきてくれた」。
そして、人々が、イエスさまに「いつ、わたしどもがそんなことをしたでしょうか、わたしはあなたにお会いしたことがありません」と言うと、イエスさまは、「わたしは最も小さな兄弟姉妹の一人にしてくれたことはわたしにしてくれたことだった」とおっしゃっています。
その反対に、「私の兄弟姉妹の最も小さなものの一人にあなたがしなかったことは、わたしにしなかったことなのだ」と。
つまり、誰かが飢えている時に私たちが知らない顔をし、誰かがのどを渇かしている時水を与えず、病気の時に見舞わず、裸の時に着物を与えなかったとしたら、それは結局、裸のイエスさま、病気で、飢え渇いていらっしゃるイエスさまをわたしたちがお助けしなかったことになるのだということなのです。
イエスさまは神の子です。そのみ言葉には偽りがありません。私たちは正直に生きたいと思っていますし、約束を守りたいと思いますけれども、けっこう、約束を破ったり、時には仕方がなく、うそをついてしまうことがあります。
ところが神さまのみ言葉は、昔も今も、そして明日も明後日も、永遠に変わることがありません。
ですから、イエスさまが一番お喜びになるプレゼントは、わたしたちが直接に黄金とか、没薬とか、乳香を差し上げることでは必ずしもなくて、四人目の博士、アルタバルがしたように、一生の間イエスさまのお姿を探し求めながら、わたしたち一人ひとりが持っている“真珠”を出会う人への親切、思いやりを通してイエスさまに差し上げることなのだと思います。
私たちは一人ひとり真珠を持っています。指輪やネックレスにする真珠は持っていないかもしれませんけれども、私たちには一人ひとり、真珠と呼ばれる心の宝物があります。
頭の良い、悪い、顔のきれい、きたない、家柄、身分、職業、そのようなものと一切かかわりなく、私たち一人ひとりが私しか幼な子のイエスさまに差し上げることのできない心の真珠を持っているはずなのです。
中には、それをイエスさまに直接お渡しできる方もあるかもわかりません。
つまり、一生の間に、直接にイエスさまのみ名を述べ伝えたり、教会で奉仕をしたりして、プレゼントをすることのできる方もおありになると思いますけれども、多分私たちの大部分は、私も含めて四人目のアルタバルのような生涯をおくるのではないかと思います。
つまり、イエスさまを探しながら、なかなかお目にかかれない。
そして平凡な生活をしながら、イエスさまにお会いしたいなあ、と思いながら、自分しか差し上げることのできない真珠、それを心の奥深くに持ちながら生きている、ということなのです。
ですからせめて、“私たちのイエスさまへのプレゼント”をクリスマスとは限らず
いつでもお捧げできるよう準備したいと思います。
2026年9月巻頭言「すべてのいのちを守るための月間」
今年の夏、久しぶりに登山をする時間を得ることができました。最北の島である利尻島で利尻山に登りました。天候にも恵まれ素晴らしい天気の中、北海道で唯一と言っていいヒグマの心配をしなくてもいい登山は、心も体も浄化してくれるような良い祈りの時間でした。さすがに最北に位置する山らしく、他の山では6月頃に見られる高山植物が、今最盛期を迎えるように咲き誇り、厳しい自然の中にこそ生きる場所を見いだした、小さくも美しい姿に神様の創造の妙を感じずにはいられません。
美しい自然の感動もありながら、その反面に容赦ない自然災害もまたわたしたちは直面しています。熊本の地震災害、千葉県や石川県での豪雨災害。片や地震と渇水に苦しみ、片や雨が降りすぎて流され生活の場を追われる。災害は今やどこでいつ起こってもおかしくない様相を示しています。北海道においても、火山活動が活発になり有珠山や十勝岳はいつ噴火してもおかしくない状況であるし、冬になれば今までは降っていなかった地域に大雪が降って都市機能が混乱することも。この自然環境の変化に、わたしたちはいったい何ができるのでしょうか。自然の驚異の前には、ただ指をくわえて見つめるだけしかない気もしますが、特に温暖化という現象の責任は人間の活動にこそあるということを知るならば、決して何もできないことはないのかも知れません。
教皇フランシスコか日本を訪れた際に掲げられたテーマ「すべてのいのちを守るため」を受け、日本の司教団は、教皇回勅「ラウダート・シ」も踏まえて、毎年9月1日~10月4日(アシジのフランシスコ記念日)までを、「すべてのいのちを守るための月間」を正式に定めました。地球温暖化や生物多様性の危機といった環境問題に向き合い、戦争を初め、人類のみならずすべての生命とのつながりを大切にして具体的な行動様式の変化などを促す期間としました。
それらへの取り組みは、
①被造物を大切にするためのミサを執り行う。
②生活様式を振り返る、エコロジカルな回心。
③AIを含めた、これからの環境に関するエコロジカルな教育。
④貧しい人々と大地の叫びへ耳を傾ける、です。 リシリブシ/利尻岳2026年8月3日撮影
もちろん、環境問題はこの期間だけ考えればいいものではないことは当たり前のことですが、それでも特にこの期間だけは心を向けて祈り、また行動することが大切なのだと、教皇様も司教団も考えているということです。ですから、それぞれの個人としてあるいは教会共同体として何ができるのかを考え行く月とできればいいのかも知れません。きっとわたしたちの日常や周りにも、多くの課題と取り組みを見つけることができます。子どもたちと自然の中で遊びながら、その土地固有の植物の不思議さを話したり、外来種の脅威を伝えたり。水や燃料を無駄少しでも無駄にしないようにすることだったり、何よりも、今の自然環境を神様が造ったことに感謝し、祈ることを伝えていくことが大切なのであろうと思います。戦争を含め人間の愚かさは自らを滅ぼしていくのかも知れませんが、また逆に神様の造られたこの世界を、元通りの調和の世界に導いていくことができるのも人間にしかできないことです。それを神様から任されていることを知り、取り組んでいくことが、人類皆で担うべき「十字架」なのであろうと思います。
