四旬節第2主日  マタイ17:1−9

使徒信条は、天地の創造主から始まります。

父のひとり子、私たちの主イエス・キリストを信じます。

主は聖霊によって宿り、おとめマリアから生まれ、ここまでは降誕節内容ですね。

そして「ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け」からの後半が伝統に従い示されます。

福音では毎年イエスの変容」の場面が読まれます。

山の上でイエスの姿が光り輝く出来事は、たまたまイエスの栄光が表された。のではなく「イエスが受難と死を通して受ける栄光の姿が前もって示された。という出来事です。

ここには「イエスの受難・死・復活にあずかる」という四旬節全体の根本的なテーマが示されているのです。同時に「私の変容」もテーマになります。

「洗礼志願者の準備」、「回心」としての「祈り・節制・愛の行い」などのテーマがありますが、このテーマ「イエスの受難・死・復活にあずかること」とつながっています。

創世記のアブラムの場面が、好きです。名前が、アブラハムに変わります。アブラムとは立派な父という意味です。一家の大黒柱みたい。それが「多くの国民の父」アブラハムになります。下の欄の注を参照。

 

★大河ユーフラテスとチグリス、その大きな河と河の間をメソポタミヤ。

川は、大河の河、黄河や揚子江、ミシシッピー河、対岸が見えないほど広い河の間に栄えた文明の地域がメソポタミア。

栄えたウルにいた男にアブラムに、神が声をかけます。アブラムの召命と言われる場面です。

2001年9月11日に「アメリカ同時多発テロ」が・・・その頃に平和を祈る集いをしていました。

イスラム教徒のイマームが「私たちはお互いにアブラハムの末です」と言いました。

ユダヤ教徒、キリスト教徒カトリックと、イスラム教徒は、同じ父を持っていると言う意味です。

信仰によって同じ父を持っていると、イマームが言ったのです。

カトリックは血族による子孫ではありませんが、みんなアブラハムの末、子孫なのです。

神を「アブラハム、イサク、ヤコブの神」と呼びます。

聖書にはアブラハムの子孫からイエス・キリストが生まれたと書いてあります。

新約聖書はアブラハムと同じ信仰を持つ人こそアブラハムの子孫なのです、とも書いてあります。

「アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。それと同じことです。

ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい」(ガラ3:6~7)。パウロは、アブラハムを度々口にしていました。

★「あなたを祝福し・・・祝福の源になるように」。

「生まれ故郷、父の家を離れる」とは、新しい生き方への旅立ちを意味しています。これは「回心」を「洗礼志願者には準備」を指しています。「脱出・エクソダス」です。

アブラハムの子孫はエジプトに移住し、そこから脱走します。モーセに引き入れられて、出エジプトへ。

モーセは紀元前16世紀または紀元前13世紀ごろ活躍したとされるイスラエルの民族指導者です。

先ほど紹介したイスラム教のイマームは、アブラハム、モーセを通して、私たちはみんな兄弟だよと言ったのです。

新約、使徒言行録 によれば、モーセは神の目に適った子ども、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教など多くの宗教において、もっとも重要な預言者の一人なのです。

しかしネボ山で、退きます。後をヨシュアにまかせて約束地に入りません。120歳と教えられました。

紀元前1300年前の人です。ネボ山を対岸から見留ことができます。

★パウロの手紙にも「福音のために共に苦しみを忍んでください」があります。

いつの時代にも、艱難辛苦、苦しみ、痛み、悩みがあります。

闇から光へ、死から命へのエクソダス・脱出、過ぎ越しの始まりが、アブラハムの旅たちに象徴されています。

疑いから信頼へ。

憎しみから愛へ。

このような「過越」の体験があるのではないでしょうか。私たちが、自分の人生の物語を「過越の物語」として受け取ることができたとするならば、そこに、イエスを死からいのちへと移してくださった神の力強い働きを感じることができるでしょう。

そのときに私たちは、イエスのあとを歩み、イエスとともに歩んでいることになるのではないでしょうか。

主の変容のエピソードは、イエスの受難と復活を暗示しているからです。

ゲッセマネの園の受難物語と不思議な類似点をもっています。

場所は両方とも高いところ、イエスは、変容の物語ではモーセとエリアが受難について語り合い、ゲッセマネでは天使が慰めます。

両方の物語とも、一緒にいる弟子は眠くなって目を開けていられません。

これは深い神秘の前に、人間の心はまったく力を失ってしまうことを表わしています。

二つの物語には相違点も。イエスは、受難について語り合うとき、変容のエピソードではまばゆいばかりに光輝き、ゲッセマネでは赤い血に染まります。

これは、復活に先立つメシアの受難は、血を流すまでの苦痛を伴うものであると同時に、輝くような栄光に満ちたものであることを象徴しているようです。

★教会は、ともすると、復活のいのちに至るまでの壮絶な苦しみという面を強調しすぎていたかもしれません。

しかし、その苦難は、神の栄光を表わす輝かしい姿でもあります。

私たちには、人生の中で大きな苦しみを耐えなければならない場面が必ずあります。

そのとき、私たちは血にまみれた惨めな姿をさらすだけではありません。私たちが苦しむとき、人びとの前では惨めでなさけない姿に見えるかも知れません。

しかし苦しみを神様に委ねるとき、自分自身が神の栄光に輝くまばゆい光を帯びていることを忘れてはなりません。主の変容の祝日は、それを私たちに思い起こさせてくれるでしょう。

★私の変容も含まれています。だんだんと私たちは変えられていきます。だんだん良くなる私の信仰! テゼの歌に「栄光から栄光」のように、栄光へと変えられていきます。

朗読聖書では省かれていますが「六日の後」という言葉があります。

この言葉は、直前の出来事との関連を感じさせる言葉です。

この箇所の直前にあるのは、ペトロの信仰告白と最初の受難予告です。「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた」(16:21)。

変容は、この受難予告と密接につながっているのです。

結びの「一同が山を下りるとき、イエスは、『人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない』と弟子たちに命じられた」という言葉もそのことを暗示しています。

そして「イエスの他にはだれもいなかった」とあります。主はイエス・キリストです。

16章21が「言葉による受難予告」だとしたら、17章は「出来事による受難予告」です。

この出来事は、イエスが受難と死をとおって受ける栄光の姿を弟子たちに垣間見させ、そのイエスに従うように弟子たちを励ますための出来事でしょう。

今日の変容の出来事を「未来の栄光があるのだから今の苦しみに耐える」というだけではなく、「苦しみと死から喜びといのちに変えられていく歩み」という過越のイメージで捉えてみてはどうでしょうか。

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