2016.7の巻頭言より
足元を見つめて
山本 孝神父
わたしは若い頃5条教会に5年いたのでたくさんの思い出がある。
もう19年も前のことだが、わたしが50歳になった時、年配のお母さんたちがローソクを50本立てたケーキで祝ってくれた。
そして、「神父さんはこれでもうわたしたちの仲間なのだから、年寄りを粗末にしないでね」と言われた。あの頃の人たちの多くはもう天に召されてしまった。
わたしが転勤したあとで、新しい聖堂が献堂された。
むかし、司祭館の隣に第一梅屋というケーキ屋があった。夏には司祭館の窓を開けていると、隣の工場からケーキの甘い香りが入ってきた。それでわたしは、旭川を離れてからしばらくは、どこのケーキ屋に入っても、不思議となにか居間にいるようなくつろいだ気持ちになることができた。
わたしは今年からまた旭川に戻ってきた。人は皆、自分の関心あるところに目が向く、神は人の心を見、ペンキやさんは塗装のハゲを、美容師さんは人の頭を、靴屋さんは人の足元が気になる。わたしは靴屋さんではないが、5条教会のミサの時、みなさんの足元が気になる。
今の時代、わたしたちは家を出ると、ほとんど靴を脱ぐことがなくなった(温泉や銭湯は別として)。たまに小さい医院などでスリッパに履き替えることがあっても、たいていは消毒済みの物が用意されている。
近年、札幌市内のほとんどの教会は、工事をして土足可になり、スリッパに履き替える手間と、靴を間違えるトラブルがなくなった。これから高齢者がますます増えていくことを考えると、すごく当然のことのように思える。いくら人生ははかないといっても、教会の中でなにも履かないでペタペタ歩くのはどうかと思う。床が汚れないので掃除が楽だ、床暖房だからとか、改装する資金がない、など5条教会にはそれなりの理由があるのだろう。しかし、教会は万人に開かれていて、時代にあっていなければならない。
今の時代、衛生観念も昔と変わってきている。トイレにはタオルではなく、エアータオルやペーパータオルが設置されているのが当たり前になり、車椅子のためのスロープも当たり前になった。また、5条教会は自動ドアがあって車椅子の人には優しいように見える。でも玄関スロープの延長には、座って靴を履く人のための椅子が置かれ、通路を塞いでいる。また、玄関に近い障害者用の広いトイレは、その前にいつも机などが置かれ実際は使用不可能になっている。
教皇フランシスコは2013年の聖霊降臨祭の説教で、『イエスはわたしたちに「全世界に出かけていきなさい!・・・福音をあかしする人になりなさい!」と言われました。・・・家から飛び出すと事故にあうかもしれません。
・・・しかし、いくつか事故にあった教会のほうが内に閉じこもり病にかかった教会よりも好きです。・・・わたしたちの中にいるイエスが、外へ出ていくために何回戸口をたたいたのでしょうか。
わたしたちはイエスを出そうとしませんでした。理由はわたしたち自身の安全のためだからです。
なぜならわたしたちは、神の自由な子どもとなるよりも、わたしたちを奴隷にするつかの間の構築物の中に閉じ込められている方が好きだからです』と話している。
教会から出ていくことは大切だ。だがその前に人が入りやすい教会を作ることも大事だ。「わたしは戸口に立ってたたいている」(黙示録3.20)という言葉を考えてほしい。