
マタイ5章~7章の「山上の教え」6:24―34。
キリスト教の内容は、イエスによる救いです。
イエスさまを信じること、信じる者は救われる!本当ですか?
そうならば信じる人が増えるかというと、そうではありません。
何故でしょう?信じることで救われる、のですから、信仰が肝要ではありませんか?
御心に適うように努力をします。人を愛します。自分を愛するように人を愛することに努力をします。
信仰と行い、これが基本です
そして良い行いと信じる心があれば、形に表れます。
感謝の気持ちが愛の形を取らせます。「愛し合いなさい」これです。
山上の説教として知られている教えは、神が人間、私たちに求めていること、つまり「神に信頼して、神の心を果たすこと、隣人を愛すること、神がお造りになったものを大切にすること」です。
ここに特徴が見られます。
「信じる者は救われる」と言うと笑う人がいました。
今も無料、タダよりも、有料の方を好む人間がいると思います。
有料というのは、お金だけを指しません。手柄を立てる、立派なことをする、称賛を浴びる、勲章をもらう。これに「お金」が入ると思います。
24「だれも、二人の主人に仕えることはできない」。
これは「富」に対する態度についての教えの中に、この言葉が置かれています。
この「富は」「天に積みなさい」(6:20)という教えの後に、この言葉「だれも、二人の主人に仕えることはできない」があります。
結論のようになっています。つまり、地上に富を積むことと天に富を積むことが両立しないように、神に仕えることと、富に仕えることは両立しないと主が言うのです。
「空の鳥、野の花」の話は、平行箇所ルカ12:22-23にもがあります。
考えて欲しい「み言葉」は「何よりも先ず、神の国と神の義を求めなさい」があります。
「神の国」とは何か。
「神の義」とは何か。これは大切なテーマです。
キリスト教信者の持っている生き方と関連しています。
「平和は良いけど、正義はどうも」という人がいます。
大局的な視点に立って、将来を、次の世代を考えて、神の国の義があると考えています。
自分という個人の目線ではなくて、社会や地球家族の未来を考えて、祈ります、行動します、ことが私たちには必要です。ではありませんか?
「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(34)。
イタリアの小咄、説話ですが。パラシュートをつけた男が、落下傘とも言いますが、降りてくる途中で、パラシュートを木の枝に引っかけて、宙ぶらりんになります。脚をぶらぶらさせてもがいていると、男が通りかかりました。「ここはどこですか?」と尋ねると、「そこは木の枝ですよ」との返事。パラシュートの男が「教会の司祭だね、神父さんはいつも正しいことを教えるが、役に立たない」。これはイタリアの小咄ですが、考えさせます。「正しいけれど役に立たない」。皆さんには、教会に通ってくることが、役に立っていますか?
旭川の自然の中で、動物植物、鉱物の命の営みに目を向け、イエスの言葉の中に自分をおいて見るようにしています。
サンセットを見ています。大きな力が自分を包んでいることを少しずつ感じ始めるこの頃です。
私たちは、自分の力で思い悩みから解放されるのではありません。私たちを思い悩みから解放してくださるのは神なのです。
「空の鳥をよく見なさい」「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい」と語りかけます。今日も神に生かされた者として、感謝の祭儀を捧げましょう。
2026年9月巻頭言「すべてのいのちを守るための月間」
今年の夏、久しぶりに登山をする時間を得ることができました。最北の島である利尻島で利尻山に登りました。天候にも恵まれ素晴らしい天気の中、北海道で唯一と言っていいヒグマの心配をしなくてもいい登山は、心も体も浄化してくれるような良い祈りの時間でした。さすがに最北に位置する山らしく、他の山では6月頃に見られる高山植物が、今最盛期を迎えるように咲き誇り、厳しい自然の中にこそ生きる場所を見いだした、小さくも美しい姿に神様の創造の妙を感じずにはいられません。
美しい自然の感動もありながら、その反面に容赦ない自然災害もまたわたしたちは直面しています。熊本の地震災害、千葉県や石川県での豪雨災害。片や地震と渇水に苦しみ、片や雨が降りすぎて流され生活の場を追われる。災害は今やどこでいつ起こってもおかしくない様相を示しています。北海道においても、火山活動が活発になり有珠山や十勝岳はいつ噴火してもおかしくない状況であるし、冬になれば今までは降っていなかった地域に大雪が降って都市機能が混乱することも。この自然環境の変化に、わたしたちはいったい何ができるのでしょうか。自然の驚異の前には、ただ指をくわえて見つめるだけしかない気もしますが、特に温暖化という現象の責任は人間の活動にこそあるということを知るならば、決して何もできないことはないのかも知れません。
教皇フランシスコか日本を訪れた際に掲げられたテーマ「すべてのいのちを守るため」を受け、日本の司教団は、教皇回勅「ラウダート・シ」も踏まえて、毎年9月1日~10月4日(アシジのフランシスコ記念日)までを、「すべてのいのちを守るための月間」を正式に定めました。地球温暖化や生物多様性の危機といった環境問題に向き合い、戦争を初め、人類のみならずすべての生命とのつながりを大切にして具体的な行動様式の変化などを促す期間としました。
それらへの取り組みは、
①被造物を大切にするためのミサを執り行う。
②生活様式を振り返る、エコロジカルな回心。
③AIを含めた、これからの環境に関するエコロジカルな教育。
④貧しい人々と大地の叫びへ耳を傾ける、です。 リシリブシ/利尻岳2026年8月3日撮影
もちろん、環境問題はこの期間だけ考えればいいものではないことは当たり前のことですが、それでも特にこの期間だけは心を向けて祈り、また行動することが大切なのだと、教皇様も司教団も考えているということです。ですから、それぞれの個人としてあるいは教会共同体として何ができるのかを考え行く月とできればいいのかも知れません。きっとわたしたちの日常や周りにも、多くの課題と取り組みを見つけることができます。子どもたちと自然の中で遊びながら、その土地固有の植物の不思議さを話したり、外来種の脅威を伝えたり。水や燃料を無駄少しでも無駄にしないようにすることだったり、何よりも、今の自然環境を神様が造ったことに感謝し、祈ることを伝えていくことが大切なのであろうと思います。戦争を含め人間の愚かさは自らを滅ぼしていくのかも知れませんが、また逆に神様の造られたこの世界を、元通りの調和の世界に導いていくことができるのも人間にしかできないことです。それを神様から任されていることを知り、取り組んでいくことが、人類皆で担うべき「十字架」なのであろうと思います。
