2024/4/14 山本孝 神父
ルカ24.35-48(イエスは彼らの心の目を開いて、言われた)
今日の福音の初めは、復活の日の夕方、エマオの村からエルサレムの弟子たちのところに戻ってきた、二人の弟子の話から始まっています。この二人はイエズス会の英隆一朗神父さんは、クレオパという弟子とその妻のマリアで、イエスの十字架のそばにいた女性たちの中に、イエスの母マリア。マグダラのマリアらとともに、クロパの妻マリアがいたと記されています(ヨハネ19.25)。
クレオパという名前は「クレオパトロス」という名前を短くしたもので、ヨハネ19.25に出てくるクロパと同一人物だろうと思われます。と書いていました。クレオパとその妻マリアが、悲しみに打ちひしがれてエルサレムから自分たちの家のあったエマオの村に向かっていた時、「二人はこのいっさいの出来事について話し合っていた」と書かれています。彼らがイエスとともに行動していた時に目撃したすべてのことを思い巡らしていたのでしょう。
クレオパと妻マリアは、夢中になっていろいろ話しあったり論じあったりしていました。その時に復活されたイエスが二人に近づきました。しかし二人の目が遮られていて、イエスだとは気づかなかったのです。二人はその旅人に「エルサレムにいながら、近ごろそこで起こったことを何も知らなかったのか」とイエスが十字架につけられたこと、自分たちは、あの方こそメシアであると期待していたことなどを話しました。さてエマオの村について彼らは旅人を自分たちの家に泊まってもらいます。そして食事の時に、その方のパンを割く動作によって、その方がイエスだとわかり、それを知らせるために、エルサレムの弟子たちのところに引き返します。
そして彼らは、あの方と話した時「わたしたちの心は内で燃えていたではないか」と語り合うのです。わたしは彼らが「わたしたちの心は内で燃えていた」と話すところが好きです。わたしたちは自分の人生の中で、最高にしあわせだったこと、嬉しかったこと、心が輝いていた時があります。信仰を持っていることは、神様と繋がって新しい価値観を持つこと、別の見方を教えてもらうことです。なんの変哲もない普通の1日の中にしあわせをたくさん見つけることのできる人は幸いです。イエスにわたしたちの心の目を開いてくださいとお願いしましょう。幼子のような澄んだきれいな目を持っていたいですね。欲に目が眩んだり、情にほだされると正しく見えなくなります。イエスは深い祈りの生活があって神と結びついているから、愛といつくしみのある見方がいつもできたと思います。
復活の日の夜トマスが不在だったので、イエスが彼らに現れた時、彼らが亡霊を見ていると思ったので、イエスは何か食べ物があるかと言って、焼いた魚を一切れ食べました。
わたしは、この焼いた魚はたぶん、トマスが夕食の時に出かけていて食べなかった分だったと想像しました。魚を食べたという何でもないことが書かれているのは、その時に実際に弟子たちが体験したことだったからです。
わたしはこのことを考えていた時、昔、わたしが渡辺和子シスターとたぶん最後にお会いした時、旭川のロータリーの近くのラーメン店で、シスターが「わたしはネギが苦手です」と言って、わたしのラーメンの上に、自分の丼からネギを移してくれたことを思い出しました。これはわたしと渡辺和子シスターの大切な思いでの一つになっています。