年間第2主日
山本孝 神父
ヨハネ1.35-42(二人の弟子はイエスについて行って.その日はイエスのもとに泊まった。)
毎年、年間第2主日には、ヨハネ福音書からイエスの活動の始まりの場面が読まれます。今日は最初の弟子がイエスに出会う場面です。洗礼者ヨハネの二人の弟子はヨハネが「見よ、神の子羊だ」と言われたイエスについて行きます。そして「どこに泊まっておられますか?」と聞いてその日はイエスのもとに泊まります。イエスのもとに泊まるとは、とてもシンボリカルな意味のあることがわかります。イエスは「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。(ヨハネ15.4)と言っています。
イエスのもとに泊まるとは、イエスがわたしたちの中に泊まるということなのです。
復活したイエスと一緒に歩いていた二人の弟子は、夕方になってエマオの村でイエスに「いっしょにお泊まりください」と誘いました。食事のときに彼らの目が開かれイエスだとわかりました。(ルカ24.18)
復活したイエスは弟子たちの誘いで一緒に泊まりましたが、イエスの最初の弟子の場合は、イエスがいっしょに泊まるように招いています。
洗礼者ヨハネの二人の弟子の一人はシモン・ペトロの兄弟アンデレでしたが、もう一人の弟子はヨハネであったと言われています。アンデレとヨハネがイエスに出会ってさらに次の日には、アンデレは自分の兄弟ペトロをイエスに引き合わせています。イエスはシモンに「あなたをケファと呼ぶ」と言われ新しい存在にし、新しい人生、新しい使命を与えてくれました。
今日の福音でイエスは二人の弟子に「来なさい。そうすれば分かる」と言っています。「求めよ、そうすれば与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門を叩け、そうすれば開けてもらえるであろう」(マタイ7.7)と同じです。イエス・キリストによって神を見るには、ひとつの条件があります。それはイエスのもとに「来る」ことです。
わたしは洗礼者ヨハネの二人の弟子がイエスと一緒に泊まった場所はどういった場所だったと考えてみました。洗礼者ヨハネは厳しい生活をしていたし、イエスも荒野で断食した後で、しっかりした宿ではなく雨が当たらなければいいような場所だったと思います。おそらく野宿のようなひと晩が彼らを変えてしまったのです。
泊まるという言葉は、止まるとか留まると書くことができます。昔、北見の教会が新築された頃、五条教会のお母さんたちと北見まで見学に行きました。その帰りに「これから層雲峡に止まるよ」と言って驚かせたことがあります。車を止めてトイレ休憩しただけでしたが、夕方だったので、泊まっていくと勘違いした人がいました。
わたしは今までさまざまな場所に泊まりました。楽しい旅行や巡礼もありました。神さまと出会って人生を変えるような宿泊があっただろうかと考えてみました。そうすると、洗礼を受ける前に、仲間の高校生たちと教会に何回か泊まったことを思い出しました。そういった楽しい出会いがあって洗礼を受けることができたのだと思います。時々、「主よ、今夜はどこにお泊まりですか?」と尋ねてみましょう。イエスが喜んで寄ってくれる心を持っていたいですね。