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年間第23主日

(ルカ14.25-33 自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、わたしの弟子ではありえない

 

 今日の福音の冒頭の言葉は、「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子ども、兄弟、姉妹を。更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」はわかりずらい箇所です。いま教会で使っている新共同訳聖書では「憎む」と訳されているもとの言葉は「より少なく愛する」という意味です。家族や周りの人たちを愛することは、大切なことです。イエスは自分を誰よりも愛し従うことを求めています。

またイエスは各自が自分の十字架を背負って、従うように言われています。わたしについてきたいのなら、献金や何かの技術や資格をとってから従うようにではなく、誰でもが持っている十字架を背負って従いなさいというのは、なんか安心します。病気や不安や心配なこと悩み事は誰にでもあります。これをどっさり溜め込んで従ってもいいわけです。それから塔を建てようとする人と戦いをする王の話では、費用のかかることをまず座して考える。(これは時間をかけて真剣に祈ること、)を教えています。  

 以前、わたしは以前「ここの教会にはすでに董が立っている方もいらっしゃいます」と悪ふざけを話したことがあります。でもその時は誰も自分の事とは思わなかったらしく無事に終わりました。

 今日の答唱詩篇は「神のはからいは限りなく、生涯わたしはその中に生きる」という曲です。この詩篇はわたしの好きな答唱句です。わたしたちには分からないことがたくさんあります。人生の不条理、理不尽なことなど、神さまに文句を言っても始まらないことがたくさんあります。でも「神の計らいは限りなく‥‥」と考えることで受け入れることができます。鈴木秀子シスターは「聖なるあきらめ」の気持ちを保つことで穏やかに生きることができると述べています。

 先日わたしは中島みゆきの糸という曲に「縦の糸はあなた 横の糸は私 織りなす布は いつか誰かを 暖めるかもしれない」という歌詞を聞いていい言葉だと思いました。わたしはいつも、縦の糸はキリストで、横の糸は私と考えていました。わたしたちがイエスとの関係がしっかりしていてこそ、人を暖めることができる気がします。

この曲の最後は「縦の糸はあなた 横の糸は私 逢うべき糸に 出逢えることを 人は 仕合わせと呼びます」でした。キリストに出会って従って、わたしたちは最終的に幸せになれます。糸が絡まったときには、結び目を解くマリア様にお祈りして解いてもらいましょう。

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