
「愛の交わりに生かされる」
復活節を過ぎて、聖霊降臨の祭日が終わり、三位一体、そしてキリストの聖体、と、キリスト教の中でも、教義の中心となる祭日が続きます。これらの祭日が連続して祝われるのは、教会の発展の歴史を紐解きながら、わたしたちの教会が誰によって、どのように養われていくのかを意識的に感じるためであると言えます。主が復活し、その主が昇天し、約束の聖霊を降し、聖霊を受けた教会が三位一体の神を見いだして、キリストの聖体を人類に与え続けていく。この流れには、神様がわたしたちを救うために用意された「人類救済のルート」を感じることができます。愛の交わりは、主と共に囲む食卓にありそこで聖体によって養われる。そして、その主の食卓にすべての人を招くことが、教会の使命です。三位一体の神の在り様は、愛の交わりそのものであり、愛の交わりはわたしたちを生かす神様の関わり方そのものを示しています。
さて、先日調べ物をしていた時に、ショッキングな過去の実験についての情報が目にとまりました。それは、13世紀に神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が行った実験とその結果についてでした。それは、50人の赤ちゃんを集めて、「誰からも話しかけられずに言葉を学習しなかった赤ちゃんはどんな言葉を発すのか。その言葉は、人間がアダムとエヴァの時に神から与えられた本来の言葉(神の言語)ではないか」を検証するというものです。赤ちゃんに生きるための最低限の世話(ミルク・おむつ替え・沐浴)だけを行い、一切話しかけず、スキンシップもせず、目も合わせず、笑いかけもしないというものでした。その結果は50人全員が話し始めることなく1歳の誕生日を迎える前に、やせ細ってこの世を去ることになってしまうという凄惨な結果でした。この現代では考えられない人権も人格も無視した恐ろしい実験は、赤ちゃんが栄養だけでは育たない、赤ちゃんへの話しかけ、スキンシップや、愛情行為と言うものが、どれほど生きるために欠かせないものであるということを示す実例として取り上げられています。しかし恐ろしいのは、この実験が、帝国皇帝の権威のもとで、純粋な神学的興味のためだけに行われたというところが、また、聞き捨てならないところでもあります。
しかし、この実験とその結果を知ると、赤ちゃんだけでなく、人間という生き物全体を眺めても、同じような「愛の欠乏」こそが、死に至るほどの原因となるのだろうと思います。もし、人類が神様から見放されて「愛しているよ」という意思表示をもらえないのだったなら、きっと人間は、お互いに奪い合い、殺し合い、滅ぼしあって、また、自らの存在価値を失って生きる意味を見失い、あっという間に滅んでいく気がします。人間とはそんな脆弱な生き物である気がします。だからこそ、愛の中に生きるように召されていることは、三位一体の神の姿に現れていると言えますし、その愛しているというしるしに、イエス・キリストと聖体がある。これこそが、三位一体の神とわたしたちのスキンシップそのものと言えるのではないでしょうか。
神様が、手間と暇をかけて、丁寧に準備してくださった、わたしたちを生かすために、育てるために、準備してくださった救いのしるしであるイエス・キリストの死と復活、聖霊を降されること、三位一体の神の姿や、キリストの聖体を、わたしたちも世を生かすために証ししていくことは、この世界に「愛を満たしていく」行為に他ならないでしょう。そのことを心に刻みつつ、祈りの中で味わう季節として行ければと思います。
2026年9月巻頭言「すべてのいのちを守るための月間」
今年の夏、久しぶりに登山をする時間を得ることができました。最北の島である利尻島で利尻山に登りました。天候にも恵まれ素晴らしい天気の中、北海道で唯一と言っていいヒグマの心配をしなくてもいい登山は、心も体も浄化してくれるような良い祈りの時間でした。さすがに最北に位置する山らしく、他の山では6月頃に見られる高山植物が、今最盛期を迎えるように咲き誇り、厳しい自然の中にこそ生きる場所を見いだした、小さくも美しい姿に神様の創造の妙を感じずにはいられません。
美しい自然の感動もありながら、その反面に容赦ない自然災害もまたわたしたちは直面しています。熊本の地震災害、千葉県や石川県での豪雨災害。片や地震と渇水に苦しみ、片や雨が降りすぎて流され生活の場を追われる。災害は今やどこでいつ起こってもおかしくない様相を示しています。北海道においても、火山活動が活発になり有珠山や十勝岳はいつ噴火してもおかしくない状況であるし、冬になれば今までは降っていなかった地域に大雪が降って都市機能が混乱することも。この自然環境の変化に、わたしたちはいったい何ができるのでしょうか。自然の驚異の前には、ただ指をくわえて見つめるだけしかない気もしますが、特に温暖化という現象の責任は人間の活動にこそあるということを知るならば、決して何もできないことはないのかも知れません。
教皇フランシスコか日本を訪れた際に掲げられたテーマ「すべてのいのちを守るため」を受け、日本の司教団は、教皇回勅「ラウダート・シ」も踏まえて、毎年9月1日~10月4日(アシジのフランシスコ記念日)までを、「すべてのいのちを守るための月間」を正式に定めました。地球温暖化や生物多様性の危機といった環境問題に向き合い、戦争を初め、人類のみならずすべての生命とのつながりを大切にして具体的な行動様式の変化などを促す期間としました。
それらへの取り組みは、
①被造物を大切にするためのミサを執り行う。
②生活様式を振り返る、エコロジカルな回心。
③AIを含めた、これからの環境に関するエコロジカルな教育。
④貧しい人々と大地の叫びへ耳を傾ける、です。 リシリブシ/利尻岳2026年8月3日撮影
もちろん、環境問題はこの期間だけ考えればいいものではないことは当たり前のことですが、それでも特にこの期間だけは心を向けて祈り、また行動することが大切なのだと、教皇様も司教団も考えているということです。ですから、それぞれの個人としてあるいは教会共同体として何ができるのかを考え行く月とできればいいのかも知れません。きっとわたしたちの日常や周りにも、多くの課題と取り組みを見つけることができます。子どもたちと自然の中で遊びながら、その土地固有の植物の不思議さを話したり、外来種の脅威を伝えたり。水や燃料を無駄少しでも無駄にしないようにすることだったり、何よりも、今の自然環境を神様が造ったことに感謝し、祈ることを伝えていくことが大切なのであろうと思います。戦争を含め人間の愚かさは自らを滅ぼしていくのかも知れませんが、また逆に神様の造られたこの世界を、元通りの調和の世界に導いていくことができるのも人間にしかできないことです。それを神様から任されていることを知り、取り組んでいくことが、人類皆で担うべき「十字架」なのであろうと思います。
