
2026年3月巻頭言
教会にいるわたしたちが「罪」という言葉を黙想する四旬節に、こんな一節を読んだら、と言うものをご紹介します。「蛙の祈り」(アントニー・デ・メロ著/裏辻洋二訳)から。
「酔漢の耳は水ぶくれ」
罪を犯すたびに害をこうむるのは、まさに当の自分だと気づいているならば、人は罪を犯すことはない
だろう。自分に対して何をしているのか、人の感じる能力は麻痺していると言っていい。
酔漢が千鳥足で通りをやって来た。
両耳はやけどで、水ぶくれになっている。
友人が呼びとめて「いったい、どうしたんだね」と聞いた。
「女房のやつ、アイロンの電源を切らずに外出したんだな。
そこに電話が鳴ったと思いねえ。間違ってアイロンをつかんじまったってわけよ。」
「なるほど、で、もう一方の耳はどうしたんだい?」
「あん畜生、電話かけなおしてきやがったのよ。」
これを読んで「ん?」と思った方も、多いでしょう。でも、読んでみれば見るほど、考えてみれば見るほど面白く、また深さも兼ね備えたお話しだと感じませんか。
「なにやってるんだろうね、この男は。バカだねぇ」と笑えるだけでではなく、このお話が何を言わんとしているのかを考えてみると味わい深さが増してくる気がします。
「罪を犯す」という言葉の意味するところを、わたしたちは「誰かを傷つけること」と捉えがちです。確かにそういった側面はありますが、それ以上に「自分自身を傷つけるものなのだ」ということをわたしたちは気づいていない、ということなのです。その危険に気づいていなければ避けようとすらもしない、それが、わたしたちの「弱さ」なのでしょう。
いったい「罪」の本質とは何なのでしょう。人を傷つけ、自らをも傷つける。どこにも得がないことを、なぜわたしたちは繰り返してしまうんでしょう。そんなことを、ちょっと黙想しながら、この四旬節、祈ってみる時間を持ってみてはいかがでしょうか。
