
2026年2月巻頭言
「"ゆるしてもらう”ことの意味」
佐久間力神父
四旬節が来ると、「ゆるしの秘跡を受けなければ」と思いつつ、なかなか足が向かない方も多いかも知れません。わたし自身、かつて(もしかすると今も)結構な不良信者だったので、子どもの頃に「告解」の表札のかかった部屋に入り、神父様に自分の悪事をお話ししなければならないあのイベントが、とても嫌でした。そのせいもあって、大人になったころには、ほとんどゆるしの秘跡は受けなくなってしまい、まともに受けるようになったのは、神父を志し、神学生になってからだというのだから、お粗末な話です。しかし、神学校で体系的に秘跡を学び、その意味を知ったときには、あらためて「これは大切な秘跡なのだ」と思ったものです。人は罪を犯す、だから赦していただく必要がある。
かつて「心の小石」というお話を、幼少期に教会学校で聞いた記憶があります。わたしたちは、大きな罪ばかりではなく、小さな罪をたくさん犯します。ちょっとした、悪い思いであったり、悪い言動であったり、悪い行動であったり。心の中に不満を感じることなんて日常茶飯事だし、つい口をついて悪口やへらず口を聞いてしまうし、やらなければらないことを面倒くさがって後回しにしたりする。そういう時、小さな罪の意識という小石が、心の中に溜まっていくと言うのです。それらの、ひとつ一つは小さいので、気にならないし、別に心が苦しいということもない。しかしその小石は、自分で取り除くことはできないもので、気づかぬうちにどんどん心の中に溜まっていきます。そして気づいたときには、心の中はいっぱいの小石に埋め尽くされ、重たくて動かすことができなくなってしまい、冷たく固まってしまいます。だから、その心の小石を、神様に取り除いてもらう。それが「ゆるしの秘跡」です。なるほど、人間の心の動きを捉えた、わかりやすい説明だと思いました。だからと言って、ゆるしの秘跡を受けたくなったか?と言えば、子ども頃のわたしには、全く響いていませんでしたが。
このたとえ話も「じゃあなぜ、わざわざ神父様にお話ししなければならないのか」という疑問が残ります。神様は、完全なる痛悔、本当にその罪を心から後悔し、二度と同じことはするまいと悔いているなら、赦してくれる方なのではないでしょうか。その通りだと思います。神様は、司祭という人間を通さなくても、赦しを与えられるに決まっています。では、なぜ司祭に告白する必要があるのでしょうか。
それは、わたしたちが「しるし」を必要としてる存在だからということが言えるのです。わたしたちは、相手からの思い知るために、しるしが必要なのです。これは「秘跡」という恵みの本質です。「秘跡」は神様がわたしたちを愛している、目に見えるしるしです。だからこそ、自分の罪を第三者としての司祭に、自分の言葉で伝えることによって、自分の罪を認識して、それを神様にさらけ出し、その罪を「あなたの罪を赦します」と、神様に代わって司祭に告げてもらうことで、その赦しを具体的なしるしとして受け取ることが、心の癒し、小石を取り除くことに繋がるのです。
たとえて言うなら、自分の子どもが言うことを聞かずヤンチャなことをして、親の大切な花瓶を割ったとします。それを見つかってしまった子供が、謝りもせず、むくれていたらどうでしょうか?「だれがやったの?どうしてやってしまったの?」と子供を叱責する親の立場は、どんな気持ちでしょうか?本当なら「ごめんなさい、僕が花瓶を割っちゃいました」と自分の言葉で謝って欲しいのが、親の本当の気持ちでしょう。子供の謝罪がないうちは、決して赦さない、という親がいるでしょうか。赦しは謝罪の前に既に与えられているはずです。では、なぜ、子どもの謝る言葉が欲しいのかと言うと、謝れる大人になって欲しい、間違ったことをした時に、ちゃんと自らの失敗や罪を認められる大人になって欲しいという、成長を願うからに他なりません。そしてちゃんと謝ったら「いいのよ、花瓶を割ってしまったのはしょうがない。赦してあげます。それよりも怪我してない?」という言葉をかけてもらったとき、その子供の本当の意味での、心の癒やしが実現していきます。神様の気持ちは同じです。どのような罪でも、赦しは既に与えられている。大切なのは、自分の口で伝えるということ、それを赦してもらったという実感を受け取るということなのです。そうすることで、本当の意味での神との和解の実現であり、癒やしと成長が与えられるということでしょう。ゆるしの秘跡が、病者の秘跡と並んで「癒やしの秘跡」と呼ばれるのは、そういう意味です。待降節や、四旬節という季節を、わたしたちが自らの罪を認め、告白し、神様の癒しの手に触れることができる、恵みの時とできますように祈ってまいりましょう。
