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聖木曜日(主の晩さんの夕べのミサ)

2025/4/17 山本孝神父

ヨハネ13.1-15(イエスは弟子たちをこのうえなく愛しぬかれた)

 今日からの三日間は「聖なる過越の三日間」と呼ばれ、典礼暦年の頂点になります。これは「主の晩さんの夕べのミサ」から始まって復活主日の晩の祈りまでの全過程をさし、受難と十字架を通して、死から命へと移られたキリストの過越を祝う三日間です。

今夜の典礼は「主の晩さんのミサ」です。「主イエスは、引き渡される夜」(1コリント11.23)ご自身のからだと血による聖体のいけにえを制定されました。この使徒パウロのことばによって、わたしたちは聖体が生まれた劇的な背景を思い起こします。

聖体には、主の受難と死という出来事が永久に刻み込まれています。聖体は、単にこれらの出来事を思い出させるにとどまらず、それらを秘跡によって再現します。聖体は、十字架のいけにえを世々に永続させるのです。わたしは教皇ヨハネ・パウロ二世の「教会にいのちを与える聖体」という回勅を思い出しました。その回勅の序文に、教会が聖体(エウカリスチア)に生かされたものであるということ。それは教会の神秘の核心にあることがらを要約しているのです。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる(マタイ28.20)。この約束がたえずさまざまなしかたで実現されていることを、教会は喜びのうちに経験します」。と書かれていました。そして第一章は聖体は信仰の神秘、第二章は教会を築く聖体について書かれていました。信者は洗礼によってキリストのからだとひとつにされますが、この一致は、聖体のいけにえにあずかることによって常に更新され、強められます。聖体拝領によってキリストはわたしたちの友となってくれます(ヨハネ15.14)。

またわたしたちは、キリストによって生きることになります(ヨハネ6.57)。聖体拝領はキリストのからだである教会が一致するよう力づけます。わたしはもう一冊「司祭の役務と生活に関する指針」という本の中から、聖体について書かれている箇所を調べました。「聖体は、キリストの死と復活の秘跡的な記念であり、またあがないをもたらす唯一のいけにえを現実に効果的に再現するものであって、キリスト教生活と福音宣教の源泉であり頂点である」。と書かれていて、聖体祭儀は司祭の役務の根本的な要素であり、「キリストの行いを時間の中に現存させるものである」から大切にするように命じられていました。

わたしは最近、精神科医として、ホスピス医としてキリスト者として二千五百名以上の患者さんを看取ってきた柏木哲夫さんの「いのちへのまなざし」という本を読みました。このお医者さんは「人は生きてきたように死んでいく」という文章の中で、ホスピスで多くの患者さんを看取ってきて、しっかり生きてきた人は、しっかりと亡くなります。ベタベタと生きていた人はベタベタと亡くなります。生き様が見事に死に様に反映します。良き死を死すためには、良き生を生きる必要があるようです。と書いていました。

そして、人生には、集める人生と散らす人生(与える人生)の人がいることを書いていました。集める人生とは、お金、物、アイデア、知識などを集めることが中心になる人生です。散らす人生とは、お金、知識、経験、能力、時間などを周りの人々に散らす人生です。このお医者さんは自分の臨床経験から、散らす人生を生きてきた人の方が、平安な最期を迎えられるように思います、と言っています。散らすものの中で最も大切なものは時間だと思います。時間を自分のために使うか、人のために使うかによってその人の人生の色合いが決まります。自分のために時間を使う人は、集める人生を送り、他の人のために使う人は、散らす人生を送ることになります。イエスの人生はすべての時間を人のために使う人生でした。聖体の秘跡も、いつまでも自分を与え続ける秘跡でした。それで与え尽くして、イエスは安らかな死を迎えました。集めることより与える(散らす人生)ことを考える生き方のできる人には、安らかな最期が待っているような気がします。*(O)

​2026年9月巻頭言「すべてのいのちを守るための月間」

 今年の夏、久しぶりに登山をする時間を得ることができました。最北の島である利尻島で利尻山に登りました。天候にも恵まれ素晴らしい天気の中、北海道で唯一と言っていいヒグマの心配をしなくてもいい登山は、心も体も浄化してくれるような良い祈りの時間でした。さすがに最北に位置する山らしく、他の山では6月頃に見られる高山植物が、今最盛期を迎えるように咲き誇り、厳しい自然の中にこそ生きる場所を見いだした、小さくも美しい姿に神様の創造の妙を感じずにはいられません。

 美しい自然の感動もありながら、その反面に容赦ない自然災害もまたわたしたちは直面しています。熊本の地震災害、千葉県や石川県での豪雨災害。片や地震と渇水に苦しみ、片や雨が降りすぎて流され生活の場を追われる。災害は今やどこでいつ起こってもおかしくない様相を示しています。北海道においても、火山活動が活発になり有珠山や十勝岳はいつ噴火してもおかしくない状況であるし、冬になれば今までは降っていなかった地域に大雪が降って都市機能が混乱することも。この自然環境の変化に、わたしたちはいったい何ができるのでしょうか。自然の驚異の前には、ただ指をくわえて見つめるだけしかない気もしますが、特に温暖化という現象の責任は人間の活動にこそあるということを知るならば、決して何もできないことはないのかも知れません。

 教皇フランシスコか日本を訪れた際に掲げられたテーマ「すべてのいのちを守るため」を受け、日本の司教団は、教皇回勅「ラウダート・シ」も踏まえて、毎年9月1日~10月4日(アシジのフランシスコ記念日)までを、「すべてのいのちを守るための月間」を正式に定めました。地球温暖化や生物多様性の危機といった環境問題に向き合い、戦争を初め、人類のみならずすべての生命とのつながりを大切にして具体的な行動様式の変化などを促す期間としました。

それらへの取り組みは、

①被造物を大切にするためのミサを執り行う。

②生活様式を振り返る、エコロジカルな回心。

③AIを含めた、これからの環境に関するエコロジカルな教育。

④貧しい人々と大地の叫びへ耳を傾ける、です。           リシリブシ/利尻岳2026年8月3日撮影

もちろん、環境問題はこの期間だけ考えればいいものではないことは当たり前のことですが、それでも特にこの期間だけは心を向けて祈り、また行動することが大切なのだと、教皇様も司教団も考えているということです。ですから、それぞれの個人としてあるいは教会共同体として何ができるのかを考え行く月とできればいいのかも知れません。きっとわたしたちの日常や周りにも、多くの課題と取り組みを見つけることができます。子どもたちと自然の中で遊びながら、その土地固有の植物の不思議さを話したり、外来種の脅威を伝えたり。水や燃料を無駄少しでも無駄にしないようにすることだったり、何よりも、今の自然環境を神様が造ったことに感謝し、祈ることを伝えていくことが大切なのであろうと思います。戦争を含め人間の愚かさは自らを滅ぼしていくのかも知れませんが、また逆に神様の造られたこの世界を、元通りの調和の世界に導いていくことができるのも人間にしかできないことです。それを神様から任されていることを知り、取り組んでいくことが、人類皆で担うべき「十字架」なのであろうと思います。

             

 

 

                                            

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