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2025年 巻頭言 

 

「十一月、死者の月に思う」

 

イエス様は永遠の命を約束して下さいます。すべての人が、そこに招かれています。十一月初めに迎える「死者の日」は地上の生から抜け出した先人達の永遠の安息とその取り次ぎを願う日であり、十一月は「死者の月」とも言われます。

この頃になると、思い出すことがあります。わたしは三人兄弟の末っ子で、二人の兄がいます。長男、次男はおよそ10歳の年の差があり、わたし自身は母が34歳の時に生まれました。兄たちとわたしとの間にしばらく間がありますが、実は、わたしはもしかしたら「産まれてこなかった子供」だったかも知れないということをかつて、母から教えてもらいました。母がわたしを妊娠した時の、お医者様の診断で、お腹の子は異常な妊娠状態で「生まれることはない」もしくは「正常には生まれてこない」と診断されたそうだったのです。そのため、今回は出産は諦めて堕胎したほうがよいという勧めを、お医者様からされてたそうです。結果として、わたしは無事に産まれたわけですが、その医者の勧めにもかかわらず、母は産むことを決意してくれました。医者からは、既に息子も二人いるし、出産経験があるとは言え、三十代半ばというのは当時としては高齢出産という範疇で、たとえ出産できたとしても、障害を持っての産まれるリスクは高くなると忠告されたと聞きました。今から考えると、五十年近く前の医療環境ですから、堕胎するという選択は普通だったのかも知れません。もちろん母体への影響のリスクも高くなる。しかし母はそれでも産まれるかどうかも分からない、わたしのために命を掛けてくれました。その決断のおかげで、十ヶ月後無事に産まれたわけです。

そしてもう一つ、わたしと兄の間に実は「姉がいた」とのことを聞きました。その姉は残念ながら流産となってしまったと聞いています。母からはその時のことを直接聞いたことはありませんが、昔から女の子を欲しがっていた母の悲しみは容易に想像できます。その後に妊娠したわたしを、命をかけてでも産もうと決意したその心の中には、もしかしたらかつて失われた命、産まれてこなかった女の子の記憶があったことで、リスクを抱えてでも産むという決意をさせたのではないかと思っています。この話を思い出すたびに、わたしにはわたし以外の「命の重さ」が最低でも二人分乗っているのだな、と思うようにしています。

わたしは、司祭を目指すかどうか迷っていた時、「自分の命の使い方」について考えていました。働くならば、お金を得るためだけに働くような仕事はしたくない、働くならば誰か人のために、生きがいを持って働ける、そんな仕事を一生の仕事としていくような人生を送りたい。自分の命の使い方は、ただ自分が満足するためだけに使ってはいけないと漠然と考えていました。思い返していたのは、この自分に乗っている命の重さについてです。この命は特別な使い方をしなければいけない、そんなことを考えながら、様々な選択肢や考えを整理していく中で選んだものが、神父になるという道でした。

わたしは何か特別なものを神様からいただいたのだ、という気持ちは持っておりません。ただ、たまたま、自分の命は誰かの命の上に立っているということが、とても分かり易い場所に送っていただいたのだと感じています。わたし達は、誰しもが誰かの犠牲や献身・命の上に、今の自分を生きています。ひとり一人が特別な命を持っています。結婚や、市井で生きることが決して凡庸な生き方であるとは思いません。それぞれ特別に召された生き方なのだと思います。「死者の日」そして「死者の月」は自分の命を支えてくれている多くの命、天の国にいる霊魂に感謝しその永遠の安息を祈ると共に、自分の「生」を見つめ直す、それぞれの召命とは何かを考える、そんな月であると改めて思います。

(この文章は、かつて、千歳教会で書いた巻頭言を、少し構成しなおして出しました。)

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