
巻頭言2025年10月
「十字を切るという祈り」
暑かった夏が本当にあったのかと思うくらい、すっかりと朝晩寒くなり始めました。秋が来ると、「秋の夜長」とも言うくらい、夜の長く過ごしやすい時間をどう過ごすかを、色々と考えたくなる季節でもあります。本を読んでもいいし、映画を見るのもいい。しかし、こんな時には、じっくりと「祈る」時間を持つというのも、良い時間の過ごし方になるのかも知れません。ロザリオを唱えたり、普段はあまり積極的には読まない聖書を紐解いてみたり。そして祈るときにはいつも、わたしたちは「十字を切る」という動作から始めるのがいいと教えられてきました。「十字を切る」とはどういう意味なのかを少し、ゆっくりと考えるのも、秋の夜長にはあっている黙想テーマかも知れません。
わたしたちキリスト者、特にカトリックの信仰を持つ者は、祈りの時、初めと終わりに、典礼的に、そして伝統的に十字を切ります。「父と、子と、聖霊のみ名によって、アーメン」と言いながら、手を上から下、左から右へと動かします。これは伝統的な祈りの所作であり、キリスト教の中でもカトリック信徒としての身分証明ともなる動作です。歴史の流れの中で、どうしてこのような動作となったかは、教会史を紐解いても、その始まりはよくわかりませんが、中世初期、12世紀前後の頃から始められた動作のようであると言われています。
この十字を切るということについて、思い出すことがあります。あるとき、プロテスタントの友人から「なぜ、カトリック信者は十字を切るの?」と突然たずねられ、「知らない」と言うのが恥ずかしかったからなのか、次のように答えました。
『十字を切るときに手を動かすのは、神様の恵みの流れを表している。最初に、上から下に手を動かす。これは、神様からのわたしたちに最初に与えられる愛の恵みの流れを表している。そして次に、左から右に手を動かす。この動作は、愛の恵みは地上で人から人へと横方向へ広がっていくことを表す。そして、その恵みの流れの真ん中には、いつもイエス・キリストがいる。そのイエス様に、自分の心を合わせるように、イエス様のいるところ、胸で手を合わすんだ。』
とっさに、まさに口から出るに任せる「出まかせ」の言葉だったのですが、ふと、自分で話していて「なるほど、愛の恵みの流れの動きだったか」と自分で納得していました。
いつも真ん中にイエス様
この十字を切る意味の話は、幼稚園や教会学校で、子供たちに必ず一度は話すお話しです。自分を振り返ってみても、十字を切るたびに、この祈りの言葉を唱えるたびに、わたしたちは神様に、御子に、聖霊に心を改めて向けることを意識しこの言葉を唱えなければならないにもかかわらず、わたし自身が幼児洗礼であるためか、何も考えずに、何十年も、そして何千回、何万回と十字を漫然と切ってきたものだと改めて思います。
わたしたちカトリック信者として十字を切るたびに、あらためて祈ることができることを感謝し、祈るたびに父と子と聖霊を思い起こしてその恵みを感謝することができますように、祈っていければと思います。そうすれば、きっと希望を与えてくれることを信じて。

