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2025年7月巻頭言                            令和7年6月24日

 

わたしは、教会の信徒にとって大切なのは何か?と時々考えます。そのヒントを与えてくれる本の一節をご紹介します。「蛙の祈り」(アントニー・デ・メロ著/裏辻洋二訳/女子パウロ会)から。

 

「この中の一人がメシアだ」

 

 ヒマラヤの山中でグルー(導師)が瞑想に明け暮れていた。ある時にふと目を開くと、眼前に予期せぬ客人が座っていた。客は広くその名を知られた僧院の大修道院長であった。

「何をお求めかな?」グルーは尋ねた。

 大修道院長は、「悲しいことでありますが、じつは…」と詳細を語り始めた。

 かつてその修道院は西ヨーロッパに広く知られ、親しまれた存在であった。年若い志願者であふれ、教会堂は修道僧の賛美の歌でどよめいていた。しかし困難な時代が僧院を飲み込んだ。人々は精神涵養の場を必要としなくなり、もはや僧院に人が群がるのは過去の事となった。年若い志願者の流れは干上がってしまい、教会堂は静まりかえった。一握りの修道僧がうち沈んだ気分で、自らの勤めに取り組んでいた。

 大修道院長が知りたいと願ったのは、つぎのことだった。

 「僧院がこのような有様に変じたについては、私どもの何かの罪が原因でありましょうか。」

 「さよう、知らずにいるという罪ですな。」

 「して、それはいかような罪なのでございましょうか。」

 「あなた方の中の一人はメシアでいらっしゃる。しかも姿を変えておられる。あなた方はそのことを知らずにいる。」グルーはそう言い終えると目を閉じて、瞑想に戻った。

 

 僧院に帰る道すがら、大修道院長はつらつら思いめぐらした。メシアが来臨された、われわれの僧院に現に今、おられる。そう思うたびに、彼の心臓は早鐘を打つのだった。なぜ今日まで私はメシアを認められずにきたのか。いったいそれはだれだ。台所の修道士か、祭礼係の修道士か、会計担当の、それとも副院長の…。いや、そうではあるまい。だれも彼も欠点、弱点にまみれている。いや、待てよ。グルーは「姿を変えて」と言われた。欠点、弱点はむしろ姿を変えるための手立てかもしれん。ウム、僧院のだれも彼もに欠点がある。であれば、そのうちの一人がメシアであっても不思議はない。

 

 僧院に戻ると彼は修道僧を一堂に集め、思いめぐらし思いいたったところを語った。一同は信じられぬという表情で互いに見交わした。メシアが?ここに?そうだとしたら、それはだれなのか。

 メシアが姿を変えてここにおられるなら、この人物こそメシアだと特定できそうには思えない。これだけは確かだ。そこで彼らは、だれであろうと出会う相手に尊敬と思いやりをもって対応するように心がけ始めた。彼らは互いに接触するにあたり、自らに言い聞かせるのだった。

 「おまえは知らないのだ。この人こそメシアかもしれないのだぞ。」

 

 このようにして過ごすうちに、僧院の雰囲気は活気にあふれ、喜びに満ちたものとなった。やがて数十人の志願者が入会を求めてきた。もう一度、教会堂には愛するという気構えに燃え立つ修道僧が歌う賛美歌の響きが喜ばしく響くようになった。

 

 心が盲目であれば、目が見えたって何の役にも立ちはしない。

 

 

 このお話を読んで何を感じますか。「?」となっている人もいるかもしれません。ここで質問です。

 

(問題)「このお話の中に出てくる修道院(僧院)には、結局メシアはいたのでしょうか?」

 

この問いに対する答えをゆっくりと考えてみましょう。共同体の進む方向に、深い示唆を与えてくれているお話しであると思います。どんな人にでも、どんな場合にでも「愛する」ということの難しさと、それを乗り越えるための「叡智(えいち)」がこの言葉には含まれている気がします。

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