top of page

主イエスが好きなのは引き算!

長尾 俊宏神父

今回は「教皇フランシスコの講話集9」のパンの奇跡(ヨハネ6、1-15)の話しの中に出てくる少年とイエスの出会いを思い起こしてみました。ヨハネの福音にだけ大麦パン5つと魚2匹とをもっている少年が登場します。5千人の人々の空腹を満たすため弟子たちは群衆のまわりを走りまわって集めたけどダメ?弟子たちも少しはもっていたのに出さなかった?この少年はどうして出したのだろう、弟子の1人が「ここにいる少年がもっている」といい、けれども5千人には何の役にもたたないでしょうという。大人なら出さないだろう、少年なら出すと思う -何故?少年のこのパンと魚は自分のもの、この糧では何の役にもたたないだろうといわれる- この少年のまどい、これは何なんだ、何がなんなのだ、何が始まるのだ!パンと魚は取られる?他の人たちには知られたくない。自分のパン、魚、自分が食べるものだもの・・・。

この福音を読みながら先日のマルコの5章21~43節の2つの秘跡の話しを思い出しました。大勢の群衆の中にまぎれ込んで、この方の着物にさえ触れることさえ出来れば救われるにちがいないと思って触れる病気の婦人。「私の着物にふれたのはだれか」群衆の中へあわれみといつくしみの目をもってさがしに行くイエスのまなざしに触れた婦人!イエスはまなざしを注ぐことで立ちあがらせてくれます。「どうして欲しいのか」「あなたの信仰があなたを救った」。イエスと婦人との出会いが始まる。物語が始まる。このような流れを期待しながら、この場面を想像したらどうだろう。イエスと少年の出会い、イエスの少年へのまなざしの中に「たのむ、力をかしてくれないか」と願うイエス。ヨハネの福音の中で1人から、まして少年からなぜ取り上げるのでしょう、たしかに、それは非合理なことです。けれども神にとってはそうではないのです。それどころかその小さな無償の、それ故英雄的な贈り物のおかげで、イエスはすべての人の飢えも満たすことが出来るのです。

少しだけの、何の役に立たないほどのもの、でもイエスにとってはそれで十分なのです。

私たちは自分の手にするものをため込み、増やそうとしますが、イエスは与えること、減

らすことを求めます。私たちは増し加えることが好きで、足し算を好みますが、イエスの好きなのは引き算で、何かをだれかに与えるために手放すことが好きです。

私たちは自分のために増したがり、イエスは私たちが他の人と分け合うのを、私たちが分かち合うのを、喜ばれます。

イエスはいわれます。真の奇跡とは、名誉権力の元となる増加ではなく、愛を、感謝を賛美を増し、神が不思議な業を行なえるようとする分配、共有だと!

少年に「たのむ、出して」この名もなき少年に呼びかけるイエスは今日の私たちにも呼びかけています。「勇気を出して、自分のわずかなものを、才能、財産を、時間、場所を、イエスと兄弟姉妹に用いてもらうよう差し出しなさい。恐れることは何もない。失われることはない。あなたが分かち合えば、神が増し加えてくださるのだから、信頼しなさい。愛を信じ、奉仕の力を信じ、無償であることの強さを信じなさい」。5千人の1人の少年に向けられたイエスのまなざしを通し現われる神のあわれみといつくしみ― みな満腹した。今日私たちはイエスのまなざしに応えるための何か差し出すものがあるだろうか。

増やすことにふりまわされている日々、減らすことに神に隣人に目を向ける「自分の貧しさを知る人は幸いである」天の国はその人のものである(マタイ4、3)この貧しさの中に足らなさの中に神の豊かな救いの恵みがありますように。

bottom of page