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レオパたちと同行したエマオへの旅人の話し

長尾 俊宏神父

 

 聖ルカはエマオの旅人(ルカ24・13~36)のこの物語をナレーション付きの動画のように見せ、語りかけるようです。2人の弟子がエルサレムから離れてエマオという彼らの村に帰っていく途中で、復活したイエスが彼らと共に歩き始めます。2人の話し合いの絶妙のタイミングでこの旅人は話しの中に割って入り「あなたがたが語り合っている、その話しは何のことですか」とたずねます。クレオパは「エルサレムに滞在していながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけがご存じないのですか」。

-イエスのエルサレム入城から過越しの前日の日々、ピラトの前での裁判、死刑の判決、十字架を背負って街中を歩くイエス、ゴルゴタの丘で死んで、墓に納められて今日で三日目、仲間の数人の婦人が私たちを驚かせる。墓は空で体は見当たらず、み使いの幻が“イエスは生きておられる”と告げたという-  ユダヤ教の過越の祭りに来てこれらの出来事を知らないとは考えられない、この人はだれ、何者?―  さらに旅人は「それはどんな事ですか」とたずねます。2人はそのことばに自分の中に渦まいている、奥深く沈んでいる自分の思いも吐き出します。「ナザレのイエスは行いにもことばにも力ある預言者でした。それなのに大祭司、議員たち、律法学者たちがこの方を十字架につけて死刑にしてしまった」。彼らに対する怒り、憎しみ、恐怖が沸き上がって来ます。と同時にこの預言者を守ることも助けることせず、我が身大切さで落ち延びていく様、この哀れさ、惨めさ、彼らにそそのかされ「十字架につけよ!」「十字架を!」「死刑だ!」「死刑に!」という群衆の中に、叫びの中に沈んでいく我が身をいやというほど味わいます。

そんな2人を見守るかのように旅人は『すべての預言が自分について、聖書全体にわたって書いてある事を2人に説明していきます。』このエルサレムの出来事も知らず、聖書全体について説明される不思議な旅人に、この夜自分たちと泊るよう招きます。この旅人、食事の席でパンを祝福し裂いたとき、2人はイエスと分かりますが、イエスは彼らの目から見えなくなり、2人はみことばに照らされた後、パンを裂くというイエスの現存の新しい印のうちに復活したイエスを認識します。私たちに話しかけ、聖書を説明された時「私たちの心は燃えていたではないか」2人はすぐにエルサレムに戻らなければと決心し、自分たちが体験したこと、すなわち自分たちが生きたイエスと出会ったこと、パンを裂くことのうちにイエスだと分かったことを他の弟子たちに知らせるためでした。

こうしてエマオへの道は私たちの信仰の歩みの象徴となりました。聖書と聖体は主に出会うための不可欠の要素です。私たちもしばしば自分の心配、困難、失望を抱えて主日のミサにやって来ます。私たちは悲しみのうちに神の計画に背を向けながら「エマオに向けて人生を歩むことがあります。」神から遠ざかります。しかし、ことばの典礼が私たちを迎え入れます。イエスは私たちに聖書を説明し、私たちの心に信仰と希望の炎を再びともし、聖体によって力を与えてくれます。これが神のことばと聖体です。これがエマオの弟子に起きたことなのです。

悲しみと失意ではなく喜びを感じるようになりました。

神のことばと聖体は私たちをいつも喜びで満たします。

悲しい時、神のことばを受け、打ちひしがれている時、神のことばを受け入れ、主のミサに行き、聖体を拝領し、イエスの救いの神秘に与りましょう。神のみことばと聖体こそが私たちを喜びで満たすのです。

主日のミサでエマオの弟子の体験を追体験することにより私たちを造り変える主との出会いの恵みを再発見することが出来るように復活した主はいつも私たちと共に、神のことばはいつも共にあって私たちの道を前へと、もっと、もっと歩ませて下さいます。

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