年間第32主日
マルコ12.38-44(この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた)
今日の福音は神殿でさまざまな人の姿を見ていてイエスが指導的立場にあった律法学者たちと、弱い立場に置かれていた貧しいやもめの献金について話している箇所です。
今月は死者の月なので、わたしは今までお世話になってきたたくさんの司祭たちのことを考えていました。2009年から2010年にかけて、カトリック教会は、アルスの聖ヴィアンネ司祭没後150年を記念して司祭年を定めました。司祭はキリストの代理者として教会を導く人です。聖ヴィアンネは、2009年、教皇ベネディクト16世により「全世界のカトリック司祭の保護の聖人」と定められた聖人です。彼は司祭についての要理の中で、叙階の秘跡によって司祭は誕生し、神さまの代わりを務める人になります。司祭が罪を赦すとき「神さまがあなたを赦します」とは言わないで「わたしはあなたを赦します」と言います。聖変化の時「これは我が主の御体です」とは言わず、「これはわたしの体です」と言います。もし叙階の秘跡がなかったら、わが主もわたしたちとともにいなかったのです。叙階の秘跡によってキリストがわたしたちと共にいてくれることになりました。
わたしは今までたくさんの司祭たちのお世話になってきました。修道会に入ってからは養成担当の司祭や神学校ではたくさんの教授の司祭たちがいました。神学校時代にわたしが好きだった神父さんは、学者の神父さんではなく、教会を担当していたカナダ人の神父さんでした。この神父さんは温和で人当たりがよく、神父さんに接していると、キリスト様の温かさが伝わってくるような感じがして、わたしは日曜日にはいつも、教会の聖堂に説教を聞きに行っていました。
彼が栃木県に転勤になってからは何人かでそこの教会まで遊びに行きました。それから軍隊時代に大砲の係をしていた神父さんは授業の時、いつも大声で話していました。わたしは彼の年賀状書きの手伝いをして、五島の名物の「かんころ餅」をもらって生まれて初めて食べました。イタリア人の修練長さんにもお世話になりました。いままでたくさんの司祭がいたから、今の自分があるのだと思います。キリストの代わりに司祭たちがいてくれて教会はまだ残っています。これからもたくさんの司祭に恵まれ、教会が発展していってほしいです。
イエスが律法学者たちを批判している聖書の箇所は、教会の指導者である司祭たちが、自分を顧みなければならない箇所です。
イエスは貧しいやもめのわずかの額の献金を賞賛しています。
2018年の年間第32主日のお告げの祈りの時、教皇は、やもめは、その権利を守ってくれる夫を亡くし、高利貸しなどの犠牲になりやすい、社会でも弱い取るに足らない立場でしたと指摘。
このやもめは賽銭箱に、自分が持つすべてである、銅貨2枚を入れたが、まさにこの謙虚で、大きな宗教的精神を持つ犠牲の態度が、イエスの目に留まることになった、と話されました。そして、神と兄弟たちに自分自身を謙虚に寛大に捧げるよう招かれました。
柏木哲夫さんというお医者さんの書いた本の中に『通りよき管』という文章がありました。教会で神さまのことを語るとき、話し手が前面に出過ぎると神さまの余韻が消えてしまうことがあります。
彼がアメリカの留学時代に通った教会の牧師さんのことが書かれていました。彼の説教のあと、その牧師の余韻ではなく、神さまの余韻が残りました。自分も人前で話すとき、彼のような「通りよき管」になりたいものです。と書いてありました。
わたしもイエス様の優しさと温かさを伝えるよい道具でいたいと思いました。