11 月はもっと、もっと「聖徒の交わり」を深める月に
長尾 俊宏神父
みなさんお元気ですか。暑い夏も過ぎ日に日に寒くなって来た感じです。修道院の庭の木々の葉も赤に黄に染まり、なかにはもう落ち葉したりにぎやかな庭の風景です。白銀の庭からグリーンの庭へ、今、紅葉の庭から冬支度をしている庭へと変わっていく今日このごろです。自然の中の変化をみながら 1 年の速さを感じています。それは、また教会の典礼の流れの速さを感じる季節です。
11 月は死者の月ですよ?!
聞きなれた言葉ですがあまり意識しないうちに師走の 12月に入っていく、そんな感じですね。
そんな中で 11月 2 日「死者の日」(教会の聖人たち)を久しぶりに読みました。
この日は「どんな日ですか」、「なんの日ですか」——
教会は天国の諸聖人を祝った翌日、すなわち 11 月 2 日は死者の霊を記念する。これは旅する教会(この世)の信者と天上の教会(天国)の聖者と苦悩の教会(煉獄)の霊魂とが一致団結して各自の功徳をゆずりあいながら、あるいは霊的善を交換しながら助け合うこと、いわゆる「聖徒の交わり」を深めるためである —(抜粋)— 皆さんにも一読のおすすめ
11 月の死者の月、自分の人生、信仰の旅の中で自分とかかわりをもってささえ助けてくれた、親、兄弟、恩人、知人をふり返る時として今は亡くなった人々への思いをこの時の中で、あの場所で出会った、過した時をふり返る時間を作るそんな月でありたいと思います。
第二バチカン公会議は「旅する人々の教会」はイエス・キリストの神秘体全体のこの交わりをよく認識し、キリストの初期の時代から死者の記念を深い敬愛の心をもって尊び「罪から解かれるよう死者のために祈ることは聖であり、健全な考えである」と。
主イエスへの道を忠実な友として追い求めた St.フランシスコは「旅の夢」の中で「私のくびきは負いやすく私の荷は軽い」という福音のことばをこんなイメージを思い浮かべたようです。
隣にあってともに負って下さる方が主イエスご自身だと知ればどんなくびきも負いやすく、引いていくのが夢、希望だと知れば、その荷はまことに軽いのである。主イエスと自分と2頭の牛が並んで夢と希望を引いていく—— St.フランシスコはそんなふうに想像してみるのだった。
二頭立てで引くように設計された車は、二頭が力を合わせなければ引いていかれないものだし、
—— 数えきれない多くの者が、夢を追って出発しながら途中で挫折していった。彼らは、自分ひとりの力でくびきを負っていこうとして、すべてをだめにしてしまったのだ。
どんな夢にせよ、夢というものは、ひとりの人が独占できるものではない、夢とは愛し合う人々のために存在するものである。だから夢を担っていくには、愛する人との協力が不可欠であり、夢を生かしていくには、旅が不可欠なのである。(フランシスコの旅と夢)
自分の人生の旅とかかわりをもってくれた故人への思いはまた感謝のつづりであり、
今、共に生きている人々とのかかわりは、感謝とお願いの日々でもありたいです。
“過ぎ去ったすべてのものに「ありがとう」来るべきすべてのものに「はい」”(故カリッシモ神父より最後のメッセージ)このような日々でありたいですね。諸聖人のとりつぎを願い、煉獄の霊魂のために祈り、日々の生活の中で主イエスと共に生かされていることを共に分かち合う日でありたいと思います。