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キリストの平和 共感する心

クレト 中村 道生神父

 

 8月になり、いろんな行事が目白押しになっています。日本の教会は6日から、15日まで「平和旬間」と定め、各教区で講演会や平和行進などの行事があり、旭川地区では8月6日から9月10日まで、カトリック大会を実施し、「共感する心」をメインテーマに、ともに祈り、分かち合い、貧しい人困っている人々に手を差し伸べる取り組みを行っています。そこで、私なりに「共感する心」について考えました。

 キリストは復活されたあと、マグダレナ・マリアと婦人たちにお現われになり、声を掛けられます。また、その日の夕方、閉じこもっていた弟子たちに、「あなた方に平和があるように」と、告げられました。わたしは、ここに、キリストの「共感する心」がよく表れていると思います。さらに、キリストは度々病人を癒し、悪霊を追い出されましたが、マルコ福音書は、“イエスは憐れに思い、手を差し伸べて、その人に触り、「私は望む、清くなれ」と仰せになった。”と述べています。

 キリストに倣い、キリストのように、「共感する心」を生きられたらと思いますが、自己中心の殻に閉じこもって、他者に心を開くのは容易ではありません。ウクライナやハワイ、さらに日本でも各地で戦争や災害に見舞われ苦しんでいる人は大勢ですが、私はそれをニュースとして見るだけで自分の生活が変わることがありません。せいぜい、ロザリオの祈りの中でその意向で捧げるくらいです。それでも、聖母被昇天を迎えて、改めてマリア様の「共感する心」について思いめぐらしました。お告げを受けられた時、エリザベト訪問、ナザレでの聖家族の生活、イエスの福音宣教を共にし、十字架のもとで、ご復活の時、聖霊降臨時、そして現代において、「私は世の終わりまで、いつもあなた方とともにいる」と言われた御子イエスと共に、聖母は「共感する心」を生きておられたとあらためて思いました。

 80歳を超える後期高齢者となった私ですが、祈るしかできないと否定的に考えていましたが、「共感する心」で今も私たちと共に生きておられる聖母(ルルドやファチマのご出現その印!)に、私たちも「共感する心」をもってロザリオの祈り

を唱える時、今苦しみにある人々に寄り添い、耳を傾け、ともに歩む祈りとなるのではと考えるようになりました。トラピストやカルメル会、クララ会の観想修道会の方々の祈りも、「共感する心」で捧げられる祈りであり、私たちの小さな祈りもマリア様に繋がって「共感する心」をもって捧げる時、苦しみの中にある人々に、「私は平和を残し、私の平和をあなた方の与える」と約束された「キリストの平和」を伝えることができるようになると思っています。

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