皆、わたしのもとに来なさい マタイ11.28重荷を負って苦労している者は、
長尾 俊宏神父
この数日、旭川も暑い日々が続いていましたが、みなさんにはお元気にお過ごしですか。
今年の年間第14主日の福音はマタイの11章25~30節でした。
さてまた、その時、で始まります。「天地の主である父、わたしはあなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを知恵のある人や、賢い人には隠し、小さい者に現わしてくださいました。そうです。父よ、これはあなたのみ心でした」。
これと同じ個所がルカ10章21~にあります。その時、イエスは聖霊によって喜びにあふれて、こう仰せになった「天地の主…」でもこの2つの福音の前の状況がちがいます。ルカはこの前に72人の弟子の喜んで帰って来ての報告が述べられています。「主よ、悪魔どもさえお名前を使って命ずると、私たちに服従します」。「わたしはあなたがたに敵のあらゆる力を制する権力をさずけたのだから、何ものもあなたたちに害を加えるものはない。むしろあなたたちの名が天に書き記されていることをよろこびなさいと、マタイのこの前の文は今の時代を何にたとえようかと人々をとがめる。ヨハネについては悪魔につかれているといい、人の子には(私には)罪人の仲間だ」という。しかし知恵の正しさはその業によって証明される。
さて数々の多くの奇跡を行った町々が悔い改めなかったので、イエスはそれらの町を責めてこう仰せになった。「ゴラジンおまえは不幸だ、カファルナウムよ、おまえは天にまで上げられると思っているのか、そして、父への賛美の後半は、ルカはあなたがたが見ているものを見る目は幸いである。多くの預言者、王たちが、あなたたちが見ているものを見ようと望んだが見ることができず、あなたたちが聞いていることを聞こうと望んだが、聞くことが出来なかったのである。
マタイの後半は、父のほかに、子を知る者はなく、子と子が父のことを現わそうと思う者とのほかに、父を知る者はない。重荷を負って苦労している者は、皆、わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは心柔和であり、謙遜であるから、わたしの軛を受け入れ、わたしの弟子になりなさい。そうすれば、魂は安らぎを見出すであろう。わたしの軛は負いやすくわたしの荷は軽いからである」。
この福音はイエスの全生涯をふり返させてくれます。
イエスの招き「疲れたもの…」こう述べたとき、イエスの前にはガリラヤの路上で日々出会う人々がいました。大勢の人々、貧しい人、病者、虐げられた人、これらの人々は希望が与えられるイエスのことばを聞こうとして、イエスの服の房にでもいいから触れたいとイエスのまわりについてまわっていました。
イエスのことばはいつも希望を与えてくれます。イエスご自身も飼い主のいない羊のように疲れ果て打ちひしがれている人々を探して神の国を告げ知らせ、多くの人の体、心を癒しておられました。イエスは今もそうしたすべての人に「だれでも、わたしのもとに来なさい」と呼びかけ休息と安らぎを約束します。
この招きは今も続いています。
わたしもその人々の中の1人!イエスの弟子として遣わされた1人!イエスをもっと見ること、聞くこと、そこに主イエスが愛している神の国の民の声、人々の生活を見る、聞くことを通してわたしたちが信仰を現わす生活の中で柔和で謙遜な姿勢で兄弟姉妹の安らぎに、なぐさめになるよう助けと優しさと希望を必要としている人々に「重荷を負っている者は皆、わたしのもとへ来なさい」と言える自分の姿が見えますか。私たちもっともっと出来ますよ!