主の降誕(日中のミサ)
2023/12/25 山本孝 神父
ヨハネ1.1-5(初めに言があった。‥‥言は神であった。)
みなさん、主のご降誕おめでとうございます。今日はわたしたちにとって喜びの祝日です。世の中ではクリスマスと言い、主の降誕祭といっても通じないようです。クリスマスの主役はサンタクロースで、盛り上げているのは商店街や産業界で、キリストの教会はこのイベントの協賛団体みたいです。でも本当は神様が救い主を遣わしてくださった。救い主が人となられたことをお祝いするキリスト教の大祝日です。
キリストの誕生を祝う復活祭は、キリスト教が成立した初期のころには祝われていませんでした。初期のキリスト信者たちが興味を持っていたのは、主の復活だけでした。降誕祭が祝われるようになったのは、四世紀になってからです。12月25日に主の復活祭を祝うようになったのは、太陽神崇拝のミトラス教が、12月25日を不滅の太陽神の誕生日として祝っていたことに関係があります。キリスト教がローマ帝国の国教となり、「キリストこそ真の正義の太陽である」との考えから、太陽神の誕生日を、主の降誕の日として祝うようになりました。救い主キリストが本当はいつお生まれになったのかは、はっきり分かりません。ただ聖書には、羊飼いが野宿していた記述があるので、冬ではなく春先のもっと暖かい時期だろうと思われています。
教会は、主の降誕祭に三つのミサを用意しています。夜半のミサ、早朝のミサ、そして日中のミサです。それぞれのミサは聖書の朗読箇所が違っています。今日のこの日中のミサは、主の降誕祭の一番中心になるミサです。福音には降誕の情景や羊飼いたちもでてこなく、神が人となられたことを伝えるヨハネ福音書の冒頭の言葉が読まれました。「初めに言があった。」の初めには、創世記の冒頭の「初めに、神が天と地を創造した」と同じ言葉が使われています。言はイエス・キリストを指しています。創造以前、何もないときに、キリストはすでにおられた、とイエスの先在性を告げています。言は神であった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。そしてヨハネは「暗闇は光を理解しなかった」と書いています。イエス・キリストは、まことの光で、世に来てすべての人を照らす光でした。しかし、世は言を認めなかった。救い主が来て2000年も経ったのに、今だに人を殺し合う戦争や紛争が絶えません。昨年はロシアがウクライナに侵攻して戦争がおかなわれていました。今年はさらに10月からパレスチナでの紛争が起きています。毎日これらのニュースを聞くと暗い嫌な気分になります。
わたしたちキリスト信者は、神の愛やキリストの教えを、少しでもこの世に伝えていく使命があります。神さまが人となられた。小さく弱い者になられたことを考え、わたしたちが無力な者であっても何かの役にたつことができると、今日考えてください、クリスマスには、愛と喜びを周りに運ぶ人になってほしいのです。