「ノン・プルス・ウルトラからプルス・ウルトラへ」
長尾 俊宏神父
新年明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
旭川に転勤して来て4月から3年目に入ります。この間、コロナ禍の中で分散ミサ、教会の年間行事も中止、計画さえも立てられず、みなさんには教会の仲間との日ごろのおしゃべりも出来ず、隣の教会の人たちとも一緒になる機会もなく、悶悶とした日々が続いて来たようにも感じます。この間、教会の原稿をたのまれたりして、前教会での入院体験からI.C.Uの原稿を投稿させてもらって来たりしました。
この原稿の元は「目黒摩天雄著、私たちの生き方より」のもので「プルス・ウルトラ」、地中海の出口のジブラルタルはギリシャ神話の中で「ヘルクレスの列柱」と呼ばれました。ジブラルタルが世界の果てだと考えられていたころ、この柱に「これ以上は何もない。これ以上はむこうへは行ってはならない」という意味で、ノン・プルス・ウルトラというラテン語の句が刻まれていました。コロンブスがこの禁を犯して西へ西へと航海し、アメリカ大陸に到着してからは頭のノンが削られてプルス・ウルトラという新しい標語が生まれました。はるかかなたには洋々たる世界がある。もっと遠くへ、より先へ、さらに高く、もっと、もっと。
今年は3月2日(水)灰の水曜日、そして四旬節が始まります。
教会はこの四旬節を通して私たちが、もっともっと、さらに高く、イエズスをみつめ、神に向うよう、この永遠の生命への道を開いてくれます。あのペトロが山で見た主の栄光はイエズス・キリストが将来栄光の内に再びこられる「これは私の愛する子、心にかなった者」=キリストと私たちが一致する希望のささえとして現れます。
かつて、イエズスがエリコの町に近づいていた時、ほどこしを求めている盲人が「イエズスが来られた」といって騒いでいる群衆の声を聞き、固くとざされた眼を主の方へ向けて、両手を高く上げて「ダビデの子イエズス、私を憐れんで下さい」と声を限りに叫びました。誰をもはばからないこの信仰に動かされたイエズスは、すぐそばまで近づいて「何をしてほしいのか」とやさしくお尋ねになりました。するとこの盲人は「主よ、見えるようにして下さい」と答え、主は「見えるようになれ、あなたの信仰があなたを救った」と仰せられ、治しておやりになりました。
主は私たちにいつも「プルス・ウルトラ」を望まれています。主イエズスの受難の前へ、主の愛といつくしみの前に近づきましょう。今は主の恵みの時ですから……。
I.C.U I(We) can ultra……