「くえないなしのはなし」
長尾 俊宏神父
これは食えないはなしのなしの話ではなく、食えないなしのなしの話です。先日幼稚園の子供たちに食べられないナシの話しをしました。色は梨色ですがガチガチで石ころのようですし、中には虫が入っているものもあります。置いて来たので、後で園児たち触っていたかもしれません。
修道院の庭に2本の大きな梨の木があります。初夏には枝がかくれる程、白い花が咲きほこり、それは美しくきれいで、満開に咲き、みごとなものです。「これ、みんな実になったらどうする」「このナシ食べられる?」としばらくは話題の中心でしたが、それもいつのまにか散り始め、話題が少なくなっていく間にも小さな実をつけ、少しずつ大きくなっていってました。そのうち、木の周りには梨が落ちはじめ、木の梨もあちこち、くさり始めています。そして落ちます。ときどきカラスが来て食べているようです。木の周りには一面落ちた梨、梨です。酸味ある梨の香り?悪臭を放っています。
今もそれは続いています。木から梨が1コもなくなるまで・・・。
私の勝手な結論、木は実力以上に枝を広げ、花を咲かせ、実をつけ、大きく出来ず、味もつけられず、身を守るために実を落し、腐らし落下を早めている。自然の中に生きる梨ならばこの生き方でいいのでしょうが、食べ物のナシはそうはいかないでしょう。そんな中で、旧約聖書(コヘレト)の1節を思い出しました。
「天の下のすべてのものには、その時期があり、すべての営みにはその時がある。
植える時があり、泣く時があり、探すのに時があり、保つのに時があり、愛するのに時があり・・・」
2本の梨の木にも、まわりに肥料をやり、枝の剪定をし、虫が入らないよう、袋をかけてあげ、愛情深く見守れば大きな、美味しいナシになるのかな?!
I.C.U. Ican ultra. We can ultra.
私は、私たちはもっと大きく、もっとおいしい梨になれる。
この梨はもっと大きく、もっとおいしくなれる。
そのためにみなさんの経験と知恵の時を必要としているようです。(よろしく!)
ナシの木の幸福?「なしがなしであることのために!」