top of page

「道」

                           美架得留   間野 正孝 

 

  今日に至るまで沢山の道を通ってきた。子供のころは家から学校へ。学校を卒業すると家から職場へ。北海道から神学校へ行くために東京へ。神父になると神学校から小教区へ。北海道へ帰ると旭川へ。稚内へ。札幌へと数えきれない程の道を通ってきた。道も真っすぐな道、坂道、曲がりくねった道、砂利道、アスファルトの道、高速の道等々。

そして、道の移動手段は歩行、自転車、バイク、自動車、バスなどなど。全走行距離にすると地球何10周を走ったのであろうか。

そして今年も旭川から留萌へ。羽幌へと道を通っている。

留萌へ行く道は何通りもあるが、どの道を通っても留萌に着きます。

そして留萌から羽幌への道は海沿いを通るオロロンラインの道。羽幌から旭川の道も何通りもあります。(因みに車にはナビゲーター(道案内)がついているので道に迷うことなく目的地に着くのでとても重宝している)。

  これらは五感を通しての道であるがそうでない道もある。

それは「人生の道」。今まで自分が歩んできた道は決して平たんな道ばかりではなかった。時には険しい道や辛い道、迷路のように迷い込んでしまった道や行き止まりの道。迷ったり、岐路に立たされたり、戻ったり、寄り道などをして現在に至っている。

今までの道を振り返る時、沢山の出会いや出来事が思い出され、その時便利なナビゲーターはない。

  イエスは言う「私は道である・・・。私を通らなければ決してだれも父のもとに行くことができない」と。イエスの道は決して平たんな道ではなく、いばらの道。

しかし父に向かう道にはナビゲーターがある。その道案内はイエス自身。イエスが導き歩んだ道を今日もイエスを見つめながら歩みたい。

bottom of page