めぐみの循環
山本 孝 神父
修道院のわたしの部屋の向かいは戸田神父さんの部屋だ。
今朝、彼が「夜中に誰かに部屋をノックされた」と教えてくれた。泥棒ならわざわざノックしないだろうし、幽霊なら枕元にスーっと立つだろうから、たぶん控えめなお化けかなと思った。
もし何かの音がしても、わたしならたぶん耳が悪いし、霊感もにぶいので気づかないだろう。
以前、夜中のノックなどは、祈ってほしい霊魂が知らせに来ているのかもしれない、という話を聞いたことがある。
日本にいる宣教師が、母国で誰かが亡くなった時間に起こされたといった話だ。
わたしがまだ高校生で、教会にも行っていなかった時、わたしの父が死んだ。
父は何を思ったのか、同じ病室にいて、すでに退院していた人に、知らせに行ったようで、亡くなった日の朝、その人から問い合わせの電話があったと家族から教えてもらったことがある。
11月は死者の月だ。今月号のカトリック生活と家庭の友は、共に死についての特集を載せている。死について考えることは大切なことだ。
でも考えるだけでなく、祈りの助けを必要としている死者のためにたくさん祈る月だ。
知り合いとか身内とかに関係なく、毎日どれだけの人が神のもとに帰っていくのだろうか。
誰もが聖人でないのだから、祈りは絶対に必要だ。「人生の初めと終わりは人任せ」という川柳がある。死んですぐ、魂を神に返した時、誰もが自分では何もできない他力本願の状態に置かれているはずだ。
その時こそ、いま生きているわたしたちが助けなければならない。死者のために祈ることは教会が大切にしてきた伝統だ。この祈りの鎖が途切れないように、いま生きているわたしたちが頑張らなくてはならない。
亡くなった人のために、良い行いをする。病気や苦しみをささげる。犠牲を行う。ミサを依頼したり、俛償をもらうことなど。
とにかく自分が出来ることをしていこう。地上の教会のわたしたちが頑張ることで、天上の教会からわたしたちに恵が降り注がれる。そうすることによって、キリストの教会の聖徒の交わりが機能していくことになる。
わたしたちはアヴェ・マリアの祈りで「いまも死を迎える時も祈ってください」といつも祈っている。
大切なのは死をむかえる時だ。人は生きてきたように死んでいく。
それで、感謝のうちに穏やかに死を迎えたいと思うなら、常日頃から、ありがとうの感謝の気持ちをもって生活していることが大切だ。死を見つめることは、今の生活を見直すことだ。
わたしは最近、5条教会には、よその教会ではあまり目立たない「正義と平和」関係のポスターや署名活動が多いように感じている。これは熱心な人がいるからだと思う。わたしが以前に通っていた美唄教会では、教会のすぐ前に、ある政党の掲示板があり、『消費税増税反対、TPP法案反対、平和憲法を守ろう・・・』などのポスターをいつも見ていた。教会には政治団体のような呼びかけより、もっと福音的な呼びかけや啓発が多くあってもいいと思う。たとえば、今月なら「死は真のふるさとへの凱旋」とか、「みんなで死者のために祈ろう」といったポスターや、「死者のために毎日ロザリオを祈る会」の呼びかけや賛同者の署名運動。「求道者のための霊的花束の受付」などもあってもいいと思う。
人間の救い、魂を見据えた動きこそが、キリストが教会のわたしたちに期待していることだと思う。