
復活の主日(復活の聖なる徹夜祭)
2025/4/19 山本孝神父
ルカ24.1-12(なぜ生きておられる方を死者の中に捜すのか)
みなさん主のご復活おめでとうございます。今夜の典礼は、「復活の聖なる徹夜祭」の典礼です。初代教会のころから、夜を徹してキリストの復活を記念する典礼が行われていました。たいへん長いので、説教は短くします。
今夜の典礼は、「光の祭儀」、「ことばの典礼」、「洗礼と堅信」、「感謝の典礼」の四つの部分から構成されています。この典礼では、火、水、復活のローソクなどキリストの復活と新しいいのちを象徴するシンボルが多く用いられます。二、三日前にわたしは、高野山でたくさんの僧侶が夜通し念仏を唱える儀式をしている番組をみました。その時、火を焚いて供物を捧げ、煩悩を焼き払って願いを叶える護摩という儀式をしていました。わたしはどの宗教でも火を使い、夜を徹して祈る修行があるのだなと思いました。復活徹夜祭の大きな特徴は、初代教会のころから洗礼式が行われることでした。洗礼は、受難と死を通して復活したキリストの過越にあずかり、一人ひとりが古い自分に死んで、復活したキリストの新しいいのちに生まれる「過越」です。したがって、一年のうち最も盛大にキリストの過越を記念するこの夜こそ、洗礼式のためにふさわしい時と考えられてきました。
わたしは今から60年前の復活徹夜祭の時に洗礼を受けました。18歳の高校3年生の時でした。その頃の教会はいつも人で溢れていました。わたしは学校帰りに、いつも教会によっていました。青年会や高校生会も人でいっぱいでした。1965年4月18日の復活徹夜祭、その日いっしょに洗礼を受けた仲間は8人でした。真夜中のミサで洗礼式が行われたので、朝になって一緒に洗礼を受けた佐藤宝倉神父さんと二人で、洗礼のローソクを持って、教会の玄関で撮ってもらった写真には、まだ雪が残っていて、わたしは長靴を履いていました。わたしは自分がもしキリストと出会わなかったら、どんな人生になっていたのだろうかと考えてみました。わたしは洗礼の翌年、司祭になりたいと思い、洗礼から11年後の1976年に司祭に叙階され、いまこの年になってしまいました。キリストのように、自分を与え尽す生き方をしたいと思いつつも弱い自分をいつも感じています。歳をとることは仕方がないことですが、日々自分に死んで、新しいいのちを待ち望みたいと思っています。みなさん、今夜はキリスト者としてスタートした自分の洗礼のめぐみについて考えてみてください。古い自分に死んで、キリストとともに新しいいのちをいただいていきましょう。イースターをきっかけにもう一度、いいスタートにつきましょう。*(O)
2026年9月巻頭言「すべてのいのちを守るための月間」
今年の夏、久しぶりに登山をする時間を得ることができました。最北の島である利尻島で利尻山に登りました。天候にも恵まれ素晴らしい天気の中、北海道で唯一と言っていいヒグマの心配をしなくてもいい登山は、心も体も浄化してくれるような良い祈りの時間でした。さすがに最北に位置する山らしく、他の山では6月頃に見られる高山植物が、今最盛期を迎えるように咲き誇り、厳しい自然の中にこそ生きる場所を見いだした、小さくも美しい姿に神様の創造の妙を感じずにはいられません。
美しい自然の感動もありながら、その反面に容赦ない自然災害もまたわたしたちは直面しています。熊本の地震災害、千葉県や石川県での豪雨災害。片や地震と渇水に苦しみ、片や雨が降りすぎて流され生活の場を追われる。災害は今やどこでいつ起こってもおかしくない様相を示しています。北海道においても、火山活動が活発になり有珠山や十勝岳はいつ噴火してもおかしくない状況であるし、冬になれば今までは降っていなかった地域に大雪が降って都市機能が混乱することも。この自然環境の変化に、わたしたちはいったい何ができるのでしょうか。自然の驚異の前には、ただ指をくわえて見つめるだけしかない気もしますが、特に温暖化という現象の責任は人間の活動にこそあるということを知るならば、決して何もできないことはないのかも知れません。
教皇フランシスコか日本を訪れた際に掲げられたテーマ「すべてのいのちを守るため」を受け、日本の司教団は、教皇回勅「ラウダート・シ」も踏まえて、毎年9月1日~10月4日(アシジのフランシスコ記念日)までを、「すべてのいのちを守るための月間」を正式に定めました。地球温暖化や生物多様性の危機といった環境問題に向き合い、戦争を初め、人類のみならずすべての生命とのつながりを大切にして具体的な行動様式の変化などを促す期間としました。
それらへの取り組みは、
①被造物を大切にするためのミサを執り行う。
②生活様式を振り返る、エコロジカルな回心。
③AIを含めた、これからの環境に関するエコロジカルな教育。
④貧しい人々と大地の叫びへ耳を傾ける、です。 リシリブシ/利尻岳2026年8月3日撮影
もちろん、環境問題はこの期間だけ考えればいいものではないことは当たり前のことですが、それでも特にこの期間だけは心を向けて祈り、また行動することが大切なのだと、教皇様も司教団も考えているということです。ですから、それぞれの個人としてあるいは教会共同体として何ができるのかを考え行く月とできればいいのかも知れません。きっとわたしたちの日常や周りにも、多くの課題と取り組みを見つけることができます。子どもたちと自然の中で遊びながら、その土地固有の植物の不思議さを話したり、外来種の脅威を伝えたり。水や燃料を無駄少しでも無駄にしないようにすることだったり、何よりも、今の自然環境を神様が造ったことに感謝し、祈ることを伝えていくことが大切なのであろうと思います。戦争を含め人間の愚かさは自らを滅ぼしていくのかも知れませんが、また逆に神様の造られたこの世界を、元通りの調和の世界に導いていくことができるのも人間にしかできないことです。それを神様から任されていることを知り、取り組んでいくことが、人類皆で担うべき「十字架」なのであろうと思います。
