
年間第5主日
マルコ1.29-39(イエスは‥病気にかかっている大勢の人たちをいやした。)
今日の福音は先週の箇所の続きです。イエスは安息日に会堂で教え、悪霊にとりつかれていた人を癒しました(マルコ1.21-28)。今日の箇所はその続きで、同じ一日の間の出来事です。29節「すぐに」32節「夕方になって日が沈むと」、35節「朝早くまだ暗いうちに」と時間を追ってカファルナウムでのイエスの活動の様子が伝えられています。
まず最初にシモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたと書かれています。イエスがそばに行き、手をとって起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなしました。「もてなす」はギリシャ語で「ディアコネオーdiakoneo」です。この言葉は「仕える、奉仕する」と訳されることが多い言葉です。この言葉はマルコ福音書の中で、イエスご自身の生き方を表す言葉として重要です。
「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になりなさい。人の子は仕えられるためではなく、仕えるために、また自分のいのちをささげるために来たのである(マルコ10.43-45)。
熱がひいてさっそくもてなしたペトロのしゅうとめは、愛と奉仕に生きたイエスと同じように「愛と奉仕に生きる者」になっていったのです。
聖書と典礼の解説には、もてなしたの原語は「仕える」を意味する語。救われることは仕える者となるためであることが暗示されていよう。と書かれています。
みなさんイエスに倣って、仕える人になってくださいね。わたしは以前、つかえている人のことで、失敗したことがあります。コンビニのレジで後ろにたくさん並んでいるのにモタモタしている老人にしびれを切らし、「早くしろよ」と言ってしまってから、アッまずい(今日はローマンカラーを着ていたのだ)と気づいたのです。自分のことしかかんがえないで後ろの人を待たせる人、そういった人をつかえさせる人は嫌われます。
イエスはシモンのしゅうとめをいやしてからも、日が暮れるまでいろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、働かれました。そして次の日は朝早くまだ暗いうちに起きて、人里離れたところに出て行き、そこで祈っておられました。そして祈ってから「近くのほかの町や村へ行こう。そこでわたしは宣教する。」と言われます。祈りの後で自分のなすべきことを示しています。
わたしは若いころは修道院で共同生活でした。そのころは朝寝坊することもありましたが、教会に一人で住むようになってから、朝は早く起きられるようになりました。朝はひとりで祈る大切な時間になりました。60歳を過ぎてからは、年寄りになったので、朝は早く目が覚めるようになりました。教会の朝の祈りに、信者さんより遅く聖堂に入るのは、司祭として恥ずかしいと思うようになりました。5年前に入院するまで、旭川の修道院の玄関の鍵を朝はわたしが開けていました。毎日、朝のうちにその日のことを考え、神さまとともに過ごすことが、神様の声を聞く大切なことです。イエスが忙しい一日の中でもしっかりと祈りの時間をとっているから、その次になすべきことをしっかり選択することができていました。祈りは神さまの声を聞く大切な時間をとることです。わたしはいま老人施設に住んでいて、修道院の共同の祈りはできないけれど、毎日、修道院のミサの時間は、自分の祈りの時間に使っています。いままで、修道会の会議や黙想会の時、尊敬する神父さんたちは皆、早起きして聖堂で祈っていたことを思い出しました。
2026年9月巻頭言「すべてのいのちを守るための月間」
今年の夏、久しぶりに登山をする時間を得ることができました。最北の島である利尻島で利尻山に登りました。天候にも恵まれ素晴らしい天気の中、北海道で唯一と言っていいヒグマの心配をしなくてもいい登山は、心も体も浄化してくれるような良い祈りの時間でした。さすがに最北に位置する山らしく、他の山では6月頃に見られる高山植物が、今最盛期を迎えるように咲き誇り、厳しい自然の中にこそ生きる場所を見いだした、小さくも美しい姿に神様の創造の妙を感じずにはいられません。
美しい自然の感動もありながら、その反面に容赦ない自然災害もまたわたしたちは直面しています。熊本の地震災害、千葉県や石川県での豪雨災害。片や地震と渇水に苦しみ、片や雨が降りすぎて流され生活の場を追われる。災害は今やどこでいつ起こってもおかしくない様相を示しています。北海道においても、火山活動が活発になり有珠山や十勝岳はいつ噴火してもおかしくない状況であるし、冬になれば今までは降っていなかった地域に大雪が降って都市機能が混乱することも。この自然環境の変化に、わたしたちはいったい何ができるのでしょうか。自然の驚異の前には、ただ指をくわえて見つめるだけしかない気もしますが、特に温暖化という現象の責任は人間の活動にこそあるということを知るならば、決して何もできないことはないのかも知れません。
教皇フランシスコか日本を訪れた際に掲げられたテーマ「すべてのいのちを守るため」を受け、日本の司教団は、教皇回勅「ラウダート・シ」も踏まえて、毎年9月1日~10月4日(アシジのフランシスコ記念日)までを、「すべてのいのちを守るための月間」を正式に定めました。地球温暖化や生物多様性の危機といった環境問題に向き合い、戦争を初め、人類のみならずすべての生命とのつながりを大切にして具体的な行動様式の変化などを促す期間としました。
それらへの取り組みは、
①被造物を大切にするためのミサを執り行う。
②生活様式を振り返る、エコロジカルな回心。
③AIを含めた、これからの環境に関するエコロジカルな教育。
④貧しい人々と大地の叫びへ耳を傾ける、です。 リシリブシ/利尻岳2026年8月3日撮影
もちろん、環境問題はこの期間だけ考えればいいものではないことは当たり前のことですが、それでも特にこの期間だけは心を向けて祈り、また行動することが大切なのだと、教皇様も司教団も考えているということです。ですから、それぞれの個人としてあるいは教会共同体として何ができるのかを考え行く月とできればいいのかも知れません。きっとわたしたちの日常や周りにも、多くの課題と取り組みを見つけることができます。子どもたちと自然の中で遊びながら、その土地固有の植物の不思議さを話したり、外来種の脅威を伝えたり。水や燃料を無駄少しでも無駄にしないようにすることだったり、何よりも、今の自然環境を神様が造ったことに感謝し、祈ることを伝えていくことが大切なのであろうと思います。戦争を含め人間の愚かさは自らを滅ぼしていくのかも知れませんが、また逆に神様の造られたこの世界を、元通りの調和の世界に導いていくことができるのも人間にしかできないことです。それを神様から任されていることを知り、取り組んでいくことが、人類皆で担うべき「十字架」なのであろうと思います。
