
「ご聖体を大切にする」
以前の巻頭言でも話題としましたが、病者訪問の際にご聖体を受けられて、涙を流して喜び、その気持ちを利かない全身で表現しようとする様に、わたしは感動すら覚えて、ご聖体の素晴らしさ。そして秘跡の素晴らしさを改めて再認識しました。そしてその方が、ついに教会でのミサに参加し、ミサの中でご聖体を受けられ、改めて、秘跡という神様のプレゼントについて、思い出したことがあるので、分かち合いたいと思います。
わたしは司祭叙階されてから7年目を過ごしています。司祭としての毎日は、忙しさはあるものの、それなりに楽しんで過ごせています。いま思い返してみると、司祭として歩み始めるにあたり、わたしは次のような気持ちで取り組むことを決めていたことを思い出します。それは「生涯、秘跡を大切にする司祭でありたい」ということです。
わたしは幼児洗礼であり、生まれたときから教会の中で育ってきました。わたしにとって教会は「家」のようなものでしたが、その「家」についてちゃんと知らなかったことに神学生になって初めて気づきました。「秘跡」はカトリック教会の信仰の核をなすものですが、その秘跡について深い知識も、それを知りたいと思うことも余りありませんでしたし、それほど大切に感じてはいなかったと思います。教会の中の「儀式的なもの一つ」というくらいの認識で、それがなければ教会が成り立たない程のものだとは考えていませんでした。
しかし、いざ司祭を目指そうとしたその日から、徐々にとわたしの考え方は変わってきた、いや、何か不思議な力に、確実に変えられてきたような気がします。特にその考えを変えられたのは神学校での授業でした。「秘跡論」という講義があります。その中で秘跡とは「目に見えない神の愛の、目に見えるしるし」と定義されたと学びます。この言葉を聞いて、わたしのそれまで持っていた考えは大きく変わります。それまでのわたしにとって秘跡は、儀式的であり、司祭の手から何か力が出て、信者の心に何かを埋め込み、ただの人をキリスト者に変化させる「力」のようなものだと考えていました。しかし、秘跡とはそのような魔術的な力を作用させる儀式や力のことを指すのではなく、「愛のしるし」だというのです。
もちろん、洗礼には神が与える「罪の赦し」や、消えることのない神との絆である「霊的刻印(カラクテール)」をもたらす効果があると教会は説きます。しかしそれよりも、秘跡とは「愛のしるし」であり、それはまるで神様から差し出された「一本のバラ」のようなものなのだというのです。これには驚いたとともに、「なんて秘跡とはすばらしいんだ」と感じました。これを知ったのが、信者になって40年を過ごして、ようやく神学生になって勉強してからだというのだから遅さも極まれりなのですが、このとき本当にわたしは、キリスト教カトリックの信徒として幼児洗礼を受けて良かったと思いました。
「秘跡」は確かに神様の力が働きですが、魔術的にわたしたちを変える力なのではなく「愛のしるし」であり、わたしたちはその愛のしるしを受けるかどうかを自分で選ぶことができる「自由意志」が与えられています。だからこそ、その愛のしるしを受け取ると言う「意志」が大切であるし、受け取ったら何かが変わることよりも、その愛のしるしに「どのように応えるか」が大切なのです。愛の告白で、差し出されたバラの値段や本数が問題ではないはずです。その花に込められた愛の気持ちを受け取るか、受け取ってどうするかが大切なのです。秘跡とはそんな素晴らしいものです。改めて、わたしたちが「秘跡を受けられる家」である教会にいることに感謝したいと思います。これからも教会という家に住む、わたしたちひとり一人が、秘跡を、そしてご聖体を大切にする者であり続けられるように、神に感謝と願いを捧げていければと思います。
