
年間第22主日
「だれでも高ぶるものは低くされ、へりくだる者は・・・」
今日の聖書朗読や集会祈願には、へりくだる者という表現が何度も出てきます。イエスは「高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と言ってます。
わたしたちは自分がどこか人より優れていると思いたいところがあります。でも、すべては神から戴いたものと考えるなら謙遜になることができます。
マザー・テレサは、「もしもわたしたちが謙遜ならば、ほめられようと、けなされようと、わたしたちは気にしません。もし誰かが非難しても、がっかりすることはありません。反対に、誰かが褒めてくれたとしても、それで自分が偉くなったように思うこともありません」と述べています。
謙遜の本当の意味が分かるためにはイエス・キリストの生涯について深く考える必要があります。
初代教会の有名なキリスト賛歌では、「キリストは神の身分でありながら・・・かえって自分を無にして、僕の身分になり人間と同じものになられました。・・・へりくだって死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」と歌われています(フィリッポ2:8)
先日、面白い話を読みました。青山俊董さんという尼僧の「見る角度を変えてみる、遠く離れて眺めてみる」という講話でした。この尼僧はカトリックの尻枝神父を自分の恩師と呼んでいて、マザー・テレサにも会いに行ったことがある方です。
江戸時代末期の大阪に、ある偉いお坊さんがいて、そのお寺にひとりの豪商が人生相談に訪れた時、豪商が和尚さんにいろいろ悩みを話していたとき、一匹のアブが部屋に飛び込んできて、その部屋から出ようとして、障子にぶつかっては落ち、ぶつかっては落ちを繰り返し始めました。豪商が一生懸命悩みを訴えているのに、和尚さんは聞いているのか聞いていないのかアブばかり見ているので、彼はたまりかねて「和尚さんはよっぽどアブがお好きと見えますな」と言います。そうすると和尚は「この寺は有名な破れ寺で、障子も破れていれば、立て付けもガタガタ。あちこち出て行く隙間があるのに、ここからしか出られないと思って、何度もぶつかってはひっくり返っているアブはかわいそうなものじゃ・・・ しかし、かわいそうなのはアブばかりではなく、人間も似たようなことをやっておりますな」 とつぶやいたそうです。
これを聞いた豪商は、目からウロコが落ちるように気がついて「ありがとうございました」とお寺を出たそうです。
このアブの話を青山さんが講話でしたところ、後日、一人の女性から「先生は命の恩人です。わたしは生きる希望を失っていましたが、先生の話を聞い”自分はアブそのものだった”と気がつき、生きる勇気が湧いてきました」という手紙が来たそうです。
それで、その方に出した返信は「あなたのいのちの恩人は、わたしではなく、アブです。これからの人生にもいろいろなことが起こるでしょうが、何かにぶつかったときは”ナムアミダブツ”ではなく”ナムアブダブツ”と唱えなさい」と書いたそうです。
わたしは最後のこのオチが面白いと思いました。
見方を変えてみれば、どんな人も偉くはない、わたしたちが誇りとしている多くのものはみな神から戴いたものばかりなのです。
2026年9月巻頭言「すべてのいのちを守るための月間」
今年の夏、久しぶりに登山をする時間を得ることができました。最北の島である利尻島で利尻山に登りました。天候にも恵まれ素晴らしい天気の中、北海道で唯一と言っていいヒグマの心配をしなくてもいい登山は、心も体も浄化してくれるような良い祈りの時間でした。さすがに最北に位置する山らしく、他の山では6月頃に見られる高山植物が、今最盛期を迎えるように咲き誇り、厳しい自然の中にこそ生きる場所を見いだした、小さくも美しい姿に神様の創造の妙を感じずにはいられません。
美しい自然の感動もありながら、その反面に容赦ない自然災害もまたわたしたちは直面しています。熊本の地震災害、千葉県や石川県での豪雨災害。片や地震と渇水に苦しみ、片や雨が降りすぎて流され生活の場を追われる。災害は今やどこでいつ起こってもおかしくない様相を示しています。北海道においても、火山活動が活発になり有珠山や十勝岳はいつ噴火してもおかしくない状況であるし、冬になれば今までは降っていなかった地域に大雪が降って都市機能が混乱することも。この自然環境の変化に、わたしたちはいったい何ができるのでしょうか。自然の驚異の前には、ただ指をくわえて見つめるだけしかない気もしますが、特に温暖化という現象の責任は人間の活動にこそあるということを知るならば、決して何もできないことはないのかも知れません。
教皇フランシスコか日本を訪れた際に掲げられたテーマ「すべてのいのちを守るため」を受け、日本の司教団は、教皇回勅「ラウダート・シ」も踏まえて、毎年9月1日~10月4日(アシジのフランシスコ記念日)までを、「すべてのいのちを守るための月間」を正式に定めました。地球温暖化や生物多様性の危機といった環境問題に向き合い、戦争を初め、人類のみならずすべての生命とのつながりを大切にして具体的な行動様式の変化などを促す期間としました。
それらへの取り組みは、
①被造物を大切にするためのミサを執り行う。
②生活様式を振り返る、エコロジカルな回心。
③AIを含めた、これからの環境に関するエコロジカルな教育。
④貧しい人々と大地の叫びへ耳を傾ける、です。 リシリブシ/利尻岳2026年8月3日撮影
もちろん、環境問題はこの期間だけ考えればいいものではないことは当たり前のことですが、それでも特にこの期間だけは心を向けて祈り、また行動することが大切なのだと、教皇様も司教団も考えているということです。ですから、それぞれの個人としてあるいは教会共同体として何ができるのかを考え行く月とできればいいのかも知れません。きっとわたしたちの日常や周りにも、多くの課題と取り組みを見つけることができます。子どもたちと自然の中で遊びながら、その土地固有の植物の不思議さを話したり、外来種の脅威を伝えたり。水や燃料を無駄少しでも無駄にしないようにすることだったり、何よりも、今の自然環境を神様が造ったことに感謝し、祈ることを伝えていくことが大切なのであろうと思います。戦争を含め人間の愚かさは自らを滅ぼしていくのかも知れませんが、また逆に神様の造られたこの世界を、元通りの調和の世界に導いていくことができるのも人間にしかできないことです。それを神様から任されていることを知り、取り組んでいくことが、人類皆で担うべき「十字架」なのであろうと思います。
