マキシミリアノ・マリア・コルベ神父

 

 マキシミリアノ・マリア・コルベ(出生名ライムンド・コルベ)は1894年、ポーランドのズドゥニヅカ・ヴォラという町の織物職人の家に生まれた。16歳の時にコンベンツァル聖フランシスコ会に入会し、コルベはリヴィヴ(現ウクライナ領、1910年当時はオーストリア領だがもともとはポーランド領だった都市)のフランシスコ会の神学校で研究を始めた。

1918年24歳で司祭に叙階された。ライムンドからマキシミリアノの名に代え、1914年12月には聖職者マキシミリアノ・マリア・コルベとして誓願を立てます。

1930年、36歳のときに、ゼノ修道士ら5人とともに来日し、最初に向かったのは大浦天主堂だった。長崎でも日本語版の「聖母の騎士」誌を出版、「無原罪の聖母の園」(コンベンツァルの聖母の騎士修道院)の設立をするなど、日本の教会のために尽力した。

コルベ神父は聖母マリアに対しての特別な崇敬と愛情を持っており、少年時代には既に「白いバラと赤いバラを聖母に捧げる」と誓っていた。コルベ神父はアジアでの布教が重要だと考え、1930年に来日し、長崎に降り立ったが、最初に彼を出迎えたのが大浦天主堂の純白のマリア像だった。

知らない国で言葉も全くわからない状況の中ですぐに執筆に執りかかり、活字拾いに何時間も費やした。一日にわずか二行半しか植字の進まぬ日もあったが、長崎上陸の一ヶ月後には出版することができた。貧しく厳しい生活、病気、教会からの無理解など、コルベ神父には内外からの苦難がたくさんあったが、聖母に総てを捧げれば、聖母からの助けや慰めも多々あった。コルベ神父はこれらの慰めを「聖母がくださったキャラメル」と言った。ある時、砂糖を買うお金さえなく困っていたところ翌日にはある老人からの寄付があり、それがちょうど砂糖が買える金額だった。コルベ神父は「このお金はマリア様が下さったものです。マリア様が買うのをお望みです」と言って、ゼノ修道士に砂糖を買いに行かせたという話がある。「聖母マリアが助けて下さった」と単純な信仰をもってコルベ神父は感謝した。

1931年といえば満州事変が勃発し、コルベ神父は将来を予見するかのように書いている。「世の中に何かが起ころうとしている。しかし、聖母に捧げられた我らに、何事が起ころうとも、命以上のものを奪い取ることはできないだろう。たとえそのようになっても、我々にとって素晴らしいことだ。そのときこそ我らは精一杯、この両方の手で全世界を汚れなき聖母へと導くことができるからです。」 

 

 1936年、コルベ神父は世界最大のフランシスコ会修道院になったワルシャワのニェポカラヌフを管理するため、ポーランドに帰国します。

1939年、修道院には700人以のポーランド人にラジオを聞かせるどころか持つことすら許さなかったのです。戦争が始まって半月経ったところでニェポカラヌフに残っていた修道士たちは逮捕され、当然コルベ神父もその中の一人となりました。

一度は解放されたものの1941年2月17日に再び逮捕され、厳しい尋問の後にワルシャワのパヴィアク刑務所に投獄されます。そして、この期に及んでもなお信仰を貫くコルベ神父に激怒したドイツ兵は、彼の顔がミミズ腫れになるほど殴り続けたことがありました。まわりが興奮して落ち着くことが出来ない中、それでもコルベ神父は冷静だったそうです。

聖書にはこのような言葉が刻まれています。

「右のほほを殴られたら、左の頬をも差し出しなさい」(マタイ6:39)

 アウシュヴィッツでは16,670の囚人番号を刻まれ、ユダヤ人と同じように激しく体力を消耗する仕事を割り当てられました。7月末、収容所から脱走者が出たことで、無作為に選ばれる10人が餓死刑に処せられることになった。囚人たちは番号で呼ばれていったが、フランツェルク・ガイオニチェクというポーランド人軍曹が「私には妻子がいる」と泣き叫びだした。この声を聞いたとき、そこにいたコルベ神父は「私が彼の身代わりになります、私はカトリック司祭で妻も子もいませんから」と申し出た。責任者であるルドルフ・フェルナント・ヘスは、この申し出を許可した。コルベと9人の囚人が地下牢の餓死室に押し込められた。

時折牢内の様子を見に来た通訳のブルーノ・ボルコヴィツは牢内から聞こえる祈りと歌声によって餓死室は聖堂のように感じられた、と証言している。2週間後、当局はコルベを含む4人はまだ行きがあったため、病院付の元犯罪者であるボスを呼び寄せてフェノールを注射して殺害した。

  

ボルコヴィツはこの時のことを以下のように証言している。

 

マキシミリアノ神父は祈りながら、自分で腕を差し伸べました。私は見るに見かねて、用事があると口実を設けて外へ飛び出しました。監視兵と募夫が出て行くと、もう一度地下に降りました。マキシミリアノ神父は壁にもたれて座り、目を開け、頭を左へ傾けていました。その顔は穏やかで、美しく輝いていました。

 

 

 

 

 

 

 

亡骸は木の棺桶に入れられ、翌日は大祝日にあたる聖母の被昇天の日である8月15日に火葬された。なおコルベ神父は生前、聖母の祝日に死にたいと語っていたといわれている。

 

 白いバラは司祭、赤いバラは殉教者、その両方をコルベ神父は少年の時の約束通りに生きた司祭であった。

 

「けがれなき聖母を愛しなさい。聖母を愛する人は、真の幸福を発見します」

 

参考資料 「霊性センター」ホームページ、

「ラウダーテ」聖人カレンダーより

(コルベ神父の言葉)

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