
マルタとマリア
マルタとマリア、姉と妹の間柄を、どう思いますか?
兄と弟の関係から思い出されることがありますか?
創世記には、カインとアベルの兄弟がいました。旧い映画の名作に「エデンの東」があります、その元は「カインとアベル」と聞きました。
日本の神話にも、海幸彦・山幸彦があります。
マルタとマリア、姉妹の関係はどうなのでしょうか? どちらが好きですか?
イエスさまは、マルタの招きに応えます。
当時のユダヤ教の習慣から見れば、ゆるしがたい事だったようです。
男は男同士で行動していました。イエスは弟子を教育しながら、旅をしていました。しかし、わけへだてしませんでした。
イエスは異邦人、つまり外人にも、徴税人にも、女性にも、同じように接していました。
そしてマルタの家にも足を踏み入れたのです。これは「おおごと」でした。
日本でも「男女七歳にして席を同じゅうせず」。
7歳にもなれば、男女の別を明らかにし、親しくしてはならない、これが日本の昔のことでした。男組、女組、男女組。
「席」は部屋ではなく「ござ・むしろ」のことです。
土間にござを敷き、一枚に四人まで座っていたようです。このござの上に一緒に座らないという意でした。
ユダヤ教、イスラム教でも、男女の別が厳しく守られています。
服装からも分かります。女性は肌を見せません。男たちのいるところに、来ません。
しかし、イエスさまが、自由に振る舞っていました。
それが出来る人、人間だったのです。
マルタには弟と妹がいました。ラザロとマリア、イエスと親しかった兄弟姉妹です。マルタの記念日をご存じです?7月28日。マルタは聖人です。
妹のマリアは、ベタニアのマリアと呼ばれています。「マグダラのマリア」は違います。マグダラのマリアの記念日は、22日です。
今日の福音は、マルタとマリア姉妹とイエスさまの関わり方が描かれています。
一緒に食事をする風景に見えますが、最初の「すると」と言う言葉に注目します。「イエスがある村にお入りになった。すると」とあります。
これを学者は「だがしかし」と解釈しています。ユダヤ教は、男性を女性だけの家に入れない、招かない習慣がありました。
イスラム教社会でも、ゆるされていません。「だがしかし、マルタはイエスを家に迎え入れた」これが「すると」の背景です。
イエスは習慣や既成の価値観に囚われない方です。
先週の「サマリア人」を思い出してみます。ユダヤ人とサマリア人の間には見えない壁がありましたが、イエスは壁を壊しています。
ここからキリストが誰で、どういう人であるかを知ることができます。キリスト教は、キリスト道、道、神さまを道連れ、神さまを同伴者とする宗教です。
イエスさまは、自分を求める者を優先していました。
食事よりも、関わりを求める者を優先していたと考えます。
姉と妹、兄と弟には、それぞれの価値観がありましたね。
「神の国」、これがイエスの掲げるテーマです。
男だけでなく女性にも、そして異邦人、外国人にも、神の国を教えました。
食事という物質的な必要よりも、霊的な必要を優先していました。
神の国が優先することが、男にも、女にも大切なのです。それで「マリアは良い方を選んだ」、これはマルタにはチャレンジでした。
ベタニアのマリアの記念日があるでしょうか?
皆さんは、旅は道連れ、世は情けを思い出すでしょう。
キリスト教は、神が道連れになる宗教です。神が人間の同伴者、道連れ、おかしなたとえですが、このように考えてみると、なぜイエスが誤解を恐れずにマルタの家に入り、マリアに親しく話したのかが理解できます。
誰にも道連れ、同伴者が必要なのです。
キリストに案内していただく、聖霊さまに同伴してもらえたら、どんなに良いかと考えて欲しいと思います。
社会はますます複雑になり「忙殺」されて生きています。
ケイタイやパソコンは操ることができても、心からの対話の少ない時代です。
人格的に相対して聴き役をすることは価値があります。心をこめて話し合う対話は、隣人を助けます。
黙想会でも、ただ聞くだけでなく、一方的に話すだけではなく、対話を中心にした同伴指導があります。
聴き役として大切な方に注意を向けるよう応援するのです。
